芝居小屋のトヨ

 芝居小屋にマサが入って来ると、トヨは何だか気の毒になる。木戸銭の釣りを受け取らなかったり、客席に菓子を回したりと気前はいいが、

「釣りったって百円だぜ。こっちの気分が塞いでるときは、わずか百円で頭下げさせられてるようで、どうにも腹が立つことがあるんだ。」

 木戸番の爺さんの愚痴を聞いたことがある。

「一袋百円程度の駄菓子配って何様のつもりかね。あんな厭味なやつに席を空けるこたぁないんだよ。悔しいねえ。」

 小屋の近くの居酒屋で何人かの常連客がぼやいているのも知っていた。

 今夜も見栄を切る座長の襟にマサが一万円札を挟むと、トヨの脳裏に遠い記憶が蘇った。

「ねえ、どうしてお父ちゃんはお侍さんにおカネをあげないの?」

 母親の膝の上で無邪気に尋ねるトヨに、

「大きくなったらトヨはうんとお金持ちになって、たくさんあげられるようになるんだぞ。」

 父親は大きな手でトヨの頭を撫でた。貧しかったが楽しかった。その父親が結核で死ぬと、年に一度の芝居見物も絶えて、トヨにとって華やかな芝居小屋が幸せの象徴になった。

 やがて、にぎやかに芝居がはねた。

 小屋を出たトヨは、駅のロッカーから取り出した紙袋を持ってトイレに入り、別人のように優雅な服装でタクシーに乗った。

「あ、奥様、お帰りなさいませ。」

 家政婦が邸宅の門扉を開けた。主人は?と聞くと、それが…と家政婦はうつむいて言葉を濁した。夫婦で大きくした会社を息子に譲り、会長に退いた人間にいったいどんな仕事があるのだろう。夫は出張と称して頻繁に家を空けた。

 風呂に入る前に電話機のボタンを押すと、留守電が二つ入っていた。

「母さん、兄貴に任せておくと会社はつぶれます。至急連絡下さい。」

「おふくろの力で弟を役員から外せませんか?経営がやり難くて仕方がありません。」

 トヨは舌打ちをして録音を消去した。