カラス

令和05年05月11日

 燃えるごみの収集日の主婦は忙しい。美也子は、定年後も嘱託職員として出勤する照夫を送り出すと、家じゅうの可燃ゴミを指定の袋に集め、もう片方の手に台所の生ゴミの袋を下げてエレベーターに乗り込んだが、玄関の自動ドアを出たとたん、目の前に展開する光景に思わず立ちすくんだ。マンション北側のごみ集積場に続く路上には、広範囲に散乱した生ごみが異臭を放ち、手塚という年配の女性管理人が丹念に拾い集めては新しい袋に詰め直している。それを恐れる様子もなく、数羽のカラスが不敵に取り巻いていた。

「お早うございます。大変なことになってますね」

 美也子が声をかけると、

「しっかりと網をかけてくださると助かるんですが…」

 手塚は腰を伸ばして穏やかに答えたが、口調からはやりきれない怒りが伝わって来た。

「いっそ、お隣のマンションみたいに、頑丈な金属製の箱にした方がいいかも知れませんね」

「いえ、それでも箱の外に置く人がいたり、ごみが溢れてきちんと蓋ができないと、結局、同じことですよ」

 手塚が指さした立派な銀色の箱の周辺も、鋭いクチバシで破られた袋から果物の皮や残飯が散乱している。

「私、お手伝いします」

 美也子は二つのごみ袋を黄色い網の中に丁寧に収めると、部屋に取って返してホウキとチリトリを手に戻って来た。

「これって、手塚さんの仕事なんですか?」

「一応マンションのごみですからねえ」

「しかし、一般の家庭ごみの集積場が荒らされると、行政が片付けるのでしょう?ここは公道ですし…」

「マンション専用の集積場で、私はその管理人ですからね。これも業務の範囲なのですよ」

「そうですか。申し訳ありません」

 美也子の謝罪の意味が分からなかったのだろう。

「は?」

 手塚が青いゴム手袋の手を止めて美也子を見た。

「いえ、網をきちんとかけない非常識な人のせいだと思うと住人の一人として責任を感じてしまいます」

 と、そのとき、出勤前のスーツ姿の男性がごみを捨てに来て、二人の姿を怪訝そうに見ると、挨拶もしないで駐車場に消えた。

 マンションの管理会社から管理人に電話が入ったのはその日の午後のことだった。

「手塚さん、道路に散乱したマンションのごみの片づけを、住人に手伝わせていたという通報がありましたが本当ですか?」

「いえ、手伝わせただなんてそんな…。ご親切に自分から手伝ってくださったのです」

「そういうときは、お気持ちは有難いですが、私の仕事ですのでと、お断りすべきでしょう」

「はあ…」

「住人の目にどう映るかまで考えて行動するのが管理人の立場ですよ。朝の忙しい時間帯です。誰かが手伝っていれば、手伝えない負い目に決着をつけるために、そもそも集積場の清掃は管理人の仕事ではないかと考える人もいるでしょう。通報者の訴え通り、皆さん、そのために決して安くない管理費を負担していらっしゃるのですからね」

 手塚さんには別のマンションに移って頂くことになるかも知れませんと言われて、

「あの、これから気を付けますので、転勤だけは勘弁してください。採用のときにもお話した通り、ここが一番近くて通院にも便利なんです」

 と言わないうちに電話は切れた。

 その晩、帰って来た照夫にごみの話をすると、

「そりゃいいことをしたなあ。今どきごみの片づけを手伝うような住人はいないから、管理人さん、きっと喜んだぞ。しかし、カラスの被害を防ぐ方法は一度正式に管理組合で検討してもらった方がいいな」

 上機嫌で缶ビールを開けた。

 しかし、その週を境に管理人が別の男性と交代した理由を照夫も美也子も知る由もなかった。