脅迫罪

令和05年06月05日

 玄関で乱暴に自転車を止める音がしたかと思うと、勢いよく入って来た武志は居間を通り抜けて一目散に浴室に向かった。

「ただいまくらい言ったらどうだ!」

 夕食を終えたばかりの宗一郎が立ち上がろうとするのを郁美が慌ててたしなめたが、父親の言葉を無視するように聞こえて来たシャワーの音が宗一郎を挑発した。

「やめてね、喧嘩になるから」

「今日は言ってやるんだ。このままじゃ武志はだめになる」

 進学高校に入学した年の夏に、武志は友人の誘いでブレイクダンスに夢中になった。一旦帰宅して着替えては自転車で公会堂に出かけて行くのが日課になった。激しい音楽に合わせて仲間と踊る姿は、街灯に照らされて公会堂のガラスの壁面で躍動した。

「ダンスは大学に入ってからやれと言ってるだろう。あと半年でお前も三年生なんだぞ」

 宗一郎は浴室のドアに透ける武志の輪郭に向かって、脱衣場から話しかけた。

「ダンスじゃ食えないのは分かるだろ?大学出て、ちゃんと就職して、趣味でやるのならお父さんだって応援する。お姉ちゃんを見て見ろ。塾のない日だってテレビも観ないで勉強して、成績は学年トップだ。お前、弟として恥ずかしくないのか」

 シャワーの音が止んだ。

「何とか言ったらどうた!」

 宗一郎が声を荒げたときドアが開いて、長い髪をタオルで拭きながら武志が出て来た。たちまち狭い脱衣場に湯気が立ち込めた。すぐ横で見下ろすたくましい筋肉の肉体に圧倒されて、宗一郎は逃げるように脱衣場を出た。

 居間に心配そうな郁美がいた。

「どこで間違えたんだろう。あいつはもう手に負えない」

「あの子にも考えがあるみたいよ」

 つまらない断片知識を詰め込んで大学を出てサラリーマンになったって収入はたかが知れてるし、不景気になれば使い捨てだ。AIにできることを勉強したって仕方がない。

「同じ努力するんなら、ダンスとトークでユーチューブデビューする方がよほど人間的だし成功する可能性が高いって、いつだったか武志が言ってたわ」

「そういう考えをさも最先端の生き方のように発信して食ってるユーチューバーがいるんだ」

 くだらない…とつぶやいて宗一郎は缶ビールを開けた。

 一流大学の経営学部を出て大手自動車メーカーに就職し、現在は人事部の課長席にいる。これまで大きなリストラを二度体験したが、首を切る担当にはなっても切られる側には回らずに来た。不景気になれば使い捨てだと武志は言うが、使い捨てにならないように懸命に成果を挙げるサラリーマンの努力の上にこの国の繁栄がある。夜遅くまでダンスを踊る武志の生活を支えているのは、たかが知れている収入のために神経をすり減らしているサラリーマンたちではないか。

「まあいい、うちには弁護士になる娘がいる」

 二階まで聞こえてくる父親の大声を遮断するように菜摘はヘッドホンをつけた。弁護士になんかなりたくなかったし、勉強が好きでもなかったが、軽蔑するような弟の視線を跳ね返して、この家で存在感を保つには、成績を落とす訳にはいかなかった。

 学校でも家庭でも成績がトップであることが菜摘の価値だった。先生もクラスメートも両親も弟も、成績以外の菜摘の内面に関心はなかった。

「うちには弁護士になる娘がいる」」

 父親の声がやり場のない虚しさを激しい怒りに変えた。

 こうなるといつもの暗い衝動を抑えることは不可能だった。

 菜摘は参考書を閉じてパソコンを開いた。

『まだ生きているのですか?殺人鬼は死んでください。一週間以内に死ななければ部屋にガスが充満します。家族一緒に眠ったまま死ねますから安心してくださいね』

 優等生の指が過激な言葉で画面を埋めてゆく。


 県警の刑事二人が訪ねて来たのは二日後の午後七時だった。

 玄関で警察手帳を見せられて、

「あの…武志が何か?」

 郁美の声は上ずっていた。

「いえ、実はお嬢さんのことで…」

「娘は塾で、主人はまだ帰っておりません」

 郁美が言い終わらぬうちに年配の刑事が『捜索差押許可状』と書いたものものしい裁判所の令状を見せて、

「お嬢さんの部屋は二階ですね?」

 否定しなければ承諾とみなす強引さで階段を上がって行く。

 郁美は慌てて二人の前に出て先導した。

「実はあるタレントさんが少年時代に殺人に関わったというデマが広がりまして、ネットに誹謗中傷の書き込みが絶えません」

 巨大掲示板から火が付いた中傷は、本人が所属するプロダクションや出演コマーシャルのスポンサーにまで及び、実質、失業状態に陥った上に、家族まで攻撃対象にされた本人は、弁護士を通じて刑事課に相談したのだと言う。

「被害者から正式に刑事告訴されたので、脅迫罪に該当するほど悪質なものについて、書き込みをした人物を特定して一斉摘発した中に菜摘さんの名前がありました」

 未成年ですから家裁送致になると思いますが…と言いながら若い刑事がパソコンを操作して画面を郁美に向けた。

 そこには目を背けたくなるような汚い言葉が断続的に、そして執拗に書き込まれていた。

「一応、押収しますね」

 刑事がパソコンを抱えて階段を降りようとしたとき、玄関を開ける音がして、

「ただいま!ああ、お腹空いちゃった」

 菜摘の明るい声がした。