人間ドック

 入り口で携帯電話が鳴った。

「ばか、それで引き下がったのか!」

 啓介は思わず声が大きくなるのを抑えながらてきぱきと指示を出し、

「あの…もちろん電話を持って受診というわけには行きませんよね?」

 受付の若い女性に尋ねてあきれられた。

 会社は五十歳を超えた社員に人間ドックの受診を半ば強制する。それでも多忙を理由に先延ばしして、普通の健康診査で済ませて来たが、人事課長名の文書で受診指示を受け取った以上断れなかった。会議に出張、来客や接待のスジュールの隙間は今日しかなかったが、進行中の商談は予断を許さなかった。

(こんなことしてる場合じゃないんだ…)

 受付を済ませた啓介は、指示された通り、水色の検査衣に着替えて尿を提出し、待合室の長椅子に腰を下ろした。周囲では中高年の男女が同じ服装で息を潜めている。

 携帯電話を取り上げられた啓介は、羽をむしられた鳥のような無力さを感じた。新聞に目を通し、週刊誌を読み終えると、啓介も息を潜めて順番を待つしか仕方がなかった。

 スーツ姿の受診者が立派な社会人の顔で受付を済ませては、ただの不安なトシヨリになって長椅子に座った。反対に、さっきまで検査衣を着ておろおろしていたトシヨリたちが、スーツ姿に戻って次々と出て行った。

 やがて啓介の順番が来た。胃の検査で発泡剤を二度飲み直したものの、流れ作業のように一連の検査を終えて、最後の診察室で初めて医師と対面した。啓介より明らかに年配の医師は、シャーカツテンに貼り付けられた啓介の胸のレントゲン写真に顔を近づけて、

「あなた、最近、咳が出ませんか?」

 と聞いた。にわかに返事ができないでいる啓介を置き去りにして、

「ここんとこ、ほら、影があるでしょう?」

 医師はごく事務的に精密検査の手続きを教えた。

 着替えに戻ったロッカーのスーツの中で携帯電話が震えていた。