役割

 認知症がまだ痴呆と言われていた頃、お年寄りに包丁を持たせている痴呆の専門施設が新潟にあると聞いて見学に行った。

 なるほど案内された厨房にはキャベツを刻む女性がいた。豆腐を切る女性がいた。できあがった料理を盛り付ける女性がいた。

「危険はないのですか?」

 と尋ねると、

「人間は役割があれば安定するものですよ」

 こともなげに答える職員の脇を、配膳を自分の仕事と心得ている女性が、料理の乗ったトレーを掲げて真剣な表情で通り過ぎた。

 忙しく立ち働く女性たちを尻目に、一段高くなった畳のスペースの端で、背筋を伸ばした一人の男性が小手をかざして立っていた。

「彼は?」

「元漁師です」

 船のへ先で魚の群れを探しているのだと説明を受けて、改めて男性の顔を見ると、確かに彼の両眼は現実を超えて、はるかに広がる日本海の沖を見つめていた。

「ああして毎日、過去の役割を演じているのです」

 食事が済んで思い思いの時間を過ごすお年寄りの中に、後ろに女の子の人形を背負い、前に男の子の人形を抱いて、せっせと廊下を往復する女性がいた。ホーローの看板や円筒形の郵便ポストをあしらった昭和の街角を曲がって居室について行くと、そこだけ敷きっ放しになった布団の上に、さらに二体の人形が寝ていた。

「よしよし、よしよし…」

 彼女は人形の胸の辺りをあやす様に叩き、掛け布団の首元を直して再び歩き出した。一本の紐でくくりつけられた女の子の人形は、背中で二つ折れになって万歳をしていた。

「今では家族は誰一人訪ねて来ませんが、四人の子供を育てていた頃が彼女にとって一番幸せな時代だったのでしょうねえ」

 しみじみ話してくれる職員の横で、年老いた漁師がじっと遠い海を見つめていた。