卒寿の決意

 以前だったら朝食だけは一緒にとっていた二人だったが、コーヒーを飲む憲治の傍らを、スーツ姿の紀子が無言で通り過ぎてゆく。いつだったか、「食事は?」と聞いて、

「こちらは証人確保だけでも一苦労なのよ。この時間に出向いて行っても協力が得られるかどうかわからない」

 離婚と相続が専門のあなたには判らないわよ…と非難めいた口調で言われてからは、それも聞かなくなった。

 弁護士同士の結婚なら共通の話題には事欠かないと思っていたが、気がつくと終日満足に口を利かない日が多かった。あのとき、

「育児のために仕事を中断したくない」

 と悩む紀子を、

「育児以上に大切な仕事があるか!」

 とねじふせていれば、もう少し意味のある結婚になったに違いないと思うのだが、すでに半世紀も生きてしまった人生はもう引き返せない。

 ところが、

「先生、ご予約の方がみえました」

 事務員に促されて相談室に入った憲治の前に現れたのは、九十歳になって過去と決別しようとしている老人だった。

「そのお年で離婚ですか?失礼ですが、待っているのは介護と死の年齢ですよ。その上、孤独までお引き受けになることにどんな意味があるのですか?」

 憲治の率直な質問に、

「いや、孤独というのは心の通わぬ者同士が一緒に暮らすことですよ。もう先がないからこそ、婚姻を解消しようと話し合いましてな」

 財産をきれいに二つに分けて、自分は有料の施設に入るつもりだと言ったあと、

「あ、妻はいい人なのですよ」

 そう付け加える老人の笑顔には迷いがなかった。

 詳しい聞き取りをしながら、憲治は今夜どんなことがあっても自分たちの将来について紀子と真剣に話し合おうと考えていた。