源さんのトレーニング

 俗に、年を取って、夫が先に逝くと残された妻は元気になり、妻に先立たれた夫はすぐに後を追うなどと言うが、後をこそ追わなかったものの、源さんも決して例外ではなかった。四十九日の法要が済み、やがて子供たちの足も遠のくと、一人になった源さんは自分でも驚くほどの虚無に襲われた。誰もいない台所に向かって、

「お〜い久恵、わしの眼鏡知らんか?」

 などと声をかけるような失態がなくなった代わりに、庭は雑草に覆われ、障子の桟には埃がたまり、冷蔵庫の中は嫌な匂いがするようになった。結局、生活というものは、高邁な主義主張などではなく、炊事、洗濯、掃除の繰り返しで成立していたことを思い知ったが、そのことには一向に熱意が持てないまま、同じようなものを食べ、代わり映えのしない服を着、いつの間にか家の中で終日テレビを観て暮らすようになっていた。ある日そんな源さんを保健師が健康福祉センターに誘った。

「介護予防ちゅうて、元気の出る運動に取り組みませんか?」

「わしゃ、そんなとこには行きとうないき」

「源さんが動かれんようになったら、東京の息子さんらぁが困られるんですよ」

 その一言でふっと心が動いた。自分は元気でいるだけで子供たちの生活を守っているのだ。

 センターにはスポーツジムのような訓練機器が並んで、取り組むと案外成績が良かった。

「源さんは大したもんや」

「昔、電柱の上で身軽に作業しとっただけのことはあるのう」

 誉められると、思いのほか嬉しかった。

 筋力トレーニングの効果よりも、仲間ができた喜びの方が大きかった。

 開催日には欠かさずセンターに通って、源さんは十人ほどの仲間達の指導者のようになった。

「もっとこう…腰を入れてみぃや」

 溌剌と声をかけるトレーニングウェア姿の源さんの様子を、保健師が笑って眺めている。