おかあさん

 真夜中の電話の不吉な呼び出し音に夫婦は思わず顔を見合わせたが、おい…という達夫のわずかな顎の動きに命じられて、民子が階段を駆け下りた。

「もしもし?吉田ですが…」

 ためらいがちな民子の耳に、

「吉田民子さんですね?私、中村和子さんの後見人で山田義彦と申しますが」

「え?ああ、あの人のことはお任せすると申し上げたはずですが…」

「いえ、たった今、亡くなられたのです」

 民子は頭の芯が凍りついたような気がした。

 五歳のときに別れたきりの実母は他人より遠い存在だった。

「ご本人が亡くなられると、後見人の資格を失いますが、埋葬のこともありますし、慰留金品もお渡ししなければなりませんので…」

「何もかもお任せします。とにかく関わりたくないのです」

 民子は受話器を持ったままその場に座り込んだ。二番目の子を流産した和子が精神のバランスを崩したのが離婚の原因だと聞いているが、民子にとって母親から見捨てられた事実には変わりなかった。

「お気持ちは分かりますが、相続放棄の手続きよりも、一旦お受け取りになってからどこかに寄付される方が簡単ですし、無縁仏にするにしても、お骨だけは身寄りの方でお引き取り頂かないと困ります」

 そう言われると断れなかった。

 翌日、初めて訪れた母親のアパートは汚い川のほとりにあった。足を運ぶ度に無遠慮な音の響く鉄の階段を上って中に入ると、認知症を患っていたにしては部屋は片付いていた…が、

「これは…」

 民子の目は、壁に貼られた古びたクレパス画に釘づけになった。丸に目鼻をつけただけの無邪気な絵が大きな口を開けて笑っている。そして余白には、五歳の頃の民子が書いた「おかあさん」という文字が踊っていたのである。