満員電車

 和子にとって目的の駅までのわずか三十分を立ち続けることは苦痛ではなかったが、みすみす座席一つが荷物で占有されているのを目の前にして座れないでいるのは苦々しかった。同じように吊り革につかまる周囲の乗客たちは、あるいは目を閉じ、あるいは車窓に視線を送って、ことさら無関心を装っている。それ以上に無関心な顔で、荷物の持ち主は携帯電話の画面に夢中になっていたが、メールを打つ指先の水玉のネイルアートが、和子に、ひと月ほど前の嫌な出来事を思い出させた。

 その夜、仕事で遅くなった和子は、醤油が切れていたことを思い出してコンビニに寄った。

 入り口付近にしゃがむ三人の若者の前を通り過ぎようとした時、ふいに伸びた男の足につまずいた。

「おい、おばさん!」

 びくっとした拍子に、手に持っていたバッグが落ちて中身が散乱した。慌てて拾い集める和子の様子を二人の男が笑ったが、女は笑う代わりに斜めに見下して、中空に煙草の煙を細く吐き出した。

 その指に、水玉のネイルアートがあった。

(真面目に生きている者よりも、こんな連中の方が大きな顔をしている…)

 という怒りが重なったとたん、

「ちょっとあなた、これ、あなたの荷物でしょ?」

 和子は自分でも信じられないくらい大きな声を出していた。周囲の視線が集まるのがわかった。

「立っている人がいるのよ!非常識だと思わないの?」

 女がふてくされたように派手なビニールのバッグを膝の上に乗せると、和子は空いた席に座り、

「その態度は何?いったいどういうつもり?」

 背筋を伸ばしてさらに女を追い詰めた。

 自分は今、立っている乗客全員の苛立ちを代弁しているのだと思った。もしも結婚に失敗しないで子供がいたら、これくらいの年頃だとも思った。気が付いた大人がその都度注意する勇気を持たないと、この国はだめになるのだと真剣に考えていた。

「周りの迷惑を考えたことないの?自分が周囲からどう思われているか気が付かないの?みんなあなたに我慢してるのよ、解る?」

 和子の目に、煙を吐き出すコンビニの女が浮かんだ時、

「おばさん、静かにしてくんないかなあ」

 立っている乗客の一人が和子をにらみつけた。