自画像

 買い物帰りの玄関先で、

「このマンションの人ですか?」

 郁代を呼び止めた若者の傍らに、同じ階の足立美和がおろおろした様子で立っている。

「足立さん?」

「よかった。お知り合いですね」

 急に車の前に飛び出した美和に、散歩から帰らない夫を一緒に探してほしいとせがまれて困っているという。しかし美和の夫は確かこの春に亡くなっていた。

 そそくさと走り去る車を見送って、

「とにかく部屋に戻りましょう」

 郁代がやさしく促すと、

「あら、私の油絵がご覧になりたいのね?」

 美和の返事には脈絡がない。

 エレベーターを降りて、初めて足立美和の部屋のドアを開けた郁代は、鼻を突く悪臭に思わず顔を背けた。散乱するゴミ。食器で溢れた流し。出しっ放しの水道。テーブルの残飯には数匹の白い蛆が這っている。最近挨拶もしなくなった美和の様子は、時に通路にまで漂う腐敗臭と共にマンションの総会で話題になったばかりだが、まさかこんなことになっているとは思わなかった。絵のことはもう忘れてしまったのだろう。そわそわと足踏みをしている美和をよそに、古い電話帳を発見した郁代が、同じ苗字の番号にダイヤルすると、運良く長男が出た。

「…という訳で、部屋の中も大変な状況ですので、一度見に来て頂きたくて、差し出がましいとは存じましたが、お電話した次第です」

「それは差し出がましいですね」

「え?」

「人の家のことは放っといてください。なるようにしかならないんですから」

「しかし、火事にでもなったら…」

 と言おうとした郁代の耳には空しく発信音が響いている。

 突然人の気配を感じて見上げると、青いドレスを着た美和の自画像が、壁で幸せそうに微笑んでいた。