表札

 深夜、物音に目を覚ました一人暮らしのお年寄りが、泥棒に殴られて大怪我をしたというニュースは、火のように町内を駆け巡り、

「物騒ですから、番犬を飼うか、せめて若い男の名前を表札に書き加えるといいようですよ」

 ヘルパーはそう言い残して帰って行った。

「若い男の人の名前ですって…」

「確かに國松と房枝では、この家は年寄り夫婦だけですよと言ってるようなものだなあ」

 國松は外した表札の埃をふうっと払い、車椅子の房枝に見せた。

 いつ書いたとも記憶にない木製の表札は、よく風雪に耐え、二人の名前も洗い晒したように色褪せている。

「書き加えましょうか、男の人の名前」

「うむ。そうだな…」

 翌日、國松が買って来た新しい表札を前に、八十を越えた老夫婦の思いがけない命名作業が始まった。

「岩男はどうだ、強そうだろう」

「何だか物々しいですよ。太郎ぐらいがいいんじゃないですか?」

「それじゃあ平凡だなあ」

 俊樹…大輔…和行…と考えてゆくうちに、ふいに房枝が黙り込んだ。

「思い出したのか?」

「・・・」

 待ちに待った房枝の妊娠を喜んで、ちょうど今と同じように、二人でわが子の名前を考えたことがある。

「あれは確か…ええっと確か…」

「朝子よ。どうしても女の子の欲しかったあなたは、キリッとした朝の空気が好きだからって」

「そうそう、朝子だった!」

 流産しないで生まれていれば、五十歳を越えている。

「よし!」

 國松は目を輝かせて筆と硯を運んで来た。

「まさか、こんな年齢で子供の名前を書くとはなあ」

 何年ぶりかの揮毫だったが、かつての書道師範の腕は衰えてはいなかった。

「でも女の名前じゃ泥棒除けにはならないですね」

「こんな旧い家、泥棒だって敬遠するよ」

 二人は久しぶりに笑った。

 その日から真新しい表札に家族が一人加わった。