引き金

 手芸教室で知り合った久美子から、冷え切った夫婦関係の悩みについて再三相談された直美が、

「一度うちへいらっしゃいよ」

 夫の話もきっと参考になるからと、強引に食事に誘ったのには理由があった。

 実は直美自身が、かれこれ一年余り、夫の英明の沈黙に悩まされている。きっと妻に対していつもの不満を募らせているのに違いないが、朝起きられないのは低血圧のせいだし、夫の実家を敬遠するのは、くつろぐ場所もない老朽家屋のせいだし、貯蓄がないのは、息子を大学へ出したサラリーマンの家庭なら当然のことだ。

(あの人も、久美子の深刻な悩みを聞いて、妻の心が離れてゆく危機を感じた方がいいんだわ…)

 直美はそんなつもりで英明に久美子の話を聞かせた。

 一生懸命話しをしても、いい加減な返事しか返って来ない。たまの休みは、疲れた疲れたと昼過ぎまで寝ている。結婚記念日はおろか、妻の誕生日さえ覚えていない。

「私、夫と心が通っているという実感がないんです」

 一つ鍋をつつきながら、すっかりうちとけた久美子に、

「心が通わなくなったら夫婦はおしまいよ。子供が自立したんだから、財産半分もらって別れたらいいのに」

 残り少ない人生を、嫌な人と暮らすことはないわよ…ね?と英明に同意を求める直美の言葉の裏には、いつまでも不機嫌にしていたら私にだって覚悟があるわよというメッセージが隠れていた。

「たくさん聞いてもらって、少し楽になりました」

 電車の時間だからと、九時過ぎに帰る久美子を玄関まで送り出して、

「ね?彼女、大変そうでしょ?」

 振り向く直美を、英明の険しい瞳が見つめていた。

「確かに心が通わなくなったら夫婦はおしまいだな…」

「え?」

「別れよう。幸い、うちも子どもたちは手が離れた」

 直美の頭の中に閃光が走った。どうして?とは聞き返せなかった。英明の一年間の沈黙に、直美も沈黙で応えて来た。歩み寄るべきは英明の方だと思っていた。

 返す言葉の見つからない直美のポケットで、携帯電話が場違いな音楽を奏でた。

「もしもし、久美子です」

 直美さんに別れろと言われたら却ってふっ切れて、もう一度主人とやり直す気持ちになれましたという久美子の声は、受話器から漏れて弾んでいた。