引越し

 約束の時間を三時間過ぎても慎一は現れなかった。携帯電話はつながらなかった。騙されたと解ったとたんに、由起子の中で、慎一はただの「男」になった。名前も嘘に決まっていた。渡した三百万円は惜しくはなかったが、妻と別れるために必要だなどという陳腐な理由を易々と信じてしまった自分が情けなかった。

 由起子は「雨傘」という変わった名前の喫茶店を出た。

 いつも慎一と待ち合わせたアンテークな喫茶店だった。

 それにしても、どうして自分は一回りも年上の家庭持ちの男にばかり恋をして懲りないのだろう。

 最初の恋は二年前、由起子が二十九歳の時だった。

「済まない…。君のメールを妻が読んだ」

 しばらくは会わない方がいいと言い残して由起子の部屋の合鍵を返した課長は、その春に北海道営業所に転勤になった。妻の父親は同じ会社の人事部長だった。

 由起子は引越しをした。何事もなかったように暮らし続けるには想い出が多すぎた。

 二年後に、新しいアパートの前で財布を拾った。

 中に慎一の名刺があった。それが、罠だった。届けに行ったのをきっかけに付き合いが始まって、由紀子が部屋の合鍵を渡した頃、慎一の方から別れを切り出した。

「君も三十二になる」

 こんな形で将来を奪う訳にはいかないという慎一に、

「私、このままで構わないわよ」

 と答えた由起子は、

「ばか、君が望んでくれれば、僕は妻と別れる覚悟があるんだ!」

 慎一に抱きしめられたとたんに対等な立場を失った。


「お客さん、これ、お忘れになりました」

 携帯電話を持って追いかけて来た「雨傘」のマスターは、由起子の泣き顔を見て、

「忘れてしまった方がいいですよ」

 気の毒そうに言い添えた。

 由起子は再び引越しを決めた。一人暮らしの女の生活は、たった七箱のダンボールに収納された。

 由起子はハンドバックの中から一枚の写真を取り出した。由起子が十二歳の時に急逝した父親の写真だった。

 新しい父親に馴染めないままずっと肌身離さず持っていた写真を、由起子はしばらく眺めていたが、何を思ったのか唇を真一文字に結び、男が使っていた灰皿の上でそっと火をつけた。