虹の輪

 その日、久しぶりに電話をかけて来た母は、

「昨日の満月、綺麗な虹の輪があったやろ?」

 ひどく興奮してそう聞いたが、そんな輪は見なかったと答えると、実は誰も見た者がないのだと声を落とし、

「やっぱり青ソコヒやろか」

 気の毒なくらい落胆した。

 光源の周囲に虹の輪を見るのは緑内障の症状だと物知りの友人に言われ、家庭向けの医学書で確認したらしい。

 また始まった…と私は思った。

 七十五歳を過ぎた辺りから母は体調不良を訴えるようになった。うっかり吸い込んだミカンの青カビは肺がんの原因になりはしないかとか、朝起きる時に後頭部がふわっとするのは、脳出血の前兆ではないかとか、愚にもつかぬ症状を訴えては医者に聞けと言う。しかも、ひとしきり大騒ぎをしたあげく訴えが移っていくところを見ると、今回の虹の輪も一人暮らしの不安がなせる症状に違いなかった。

「そりゃあ困ったなあ。白内障と違って緑内障は恐いから、すぐに医者に行くんだよ」

 ことさら大げさに心配すると、気を良くした母は、早速市民病院で視野検査を受けて緑内障を否定されたが、安心どころか腹を立てて、

「視野が狭くなってからでは遅いから、虹の輪の段階で診察を受けたのに、あの医者はだめだ」

 次は町外れの開業医を受診して、やはり同じ診断を受けた。

「虹の輪を無視する医者は信用できないから都会の医者に連れて行け」

 という母からの電話に今度は私が腹を立てた。

「専門医が二人とも緑内障じゃないって診断したのだから、信用したらどうだ」

「ばか!私が失明したら、お前が困るんだぞ」

 私は返事ができなかった。

 翌日、鮮やかに満月を取り囲む虹の輪の投稿写真が新聞に載って緑内障騒ぎは終息した。

「おい、やっぱり本当に輪があったんやなあ」

 母の声は子供のように弾んでいた。