公衆電話

 ようやく完成した青い小屋を前に、あの時と同じだ…と、孝典は思った。

 娘の春香が五才の時、三十五年のローンを組んで、大阪の郊外に一戸建てのマイホームを買った。玄関に親子三人の名前を記した表札を意気揚々と掲げながら、幸せを形にすると家の形になるのだと思った。春香が高校生になった頃、上司とのトラブルが原因で閑職に追いやられた孝典の給料を、公務員である妻の給料が越えた。それが面白くなくて、仲間に誘われるまま競艇にのめり込んでゆく孝典に、妻も娘も口を利かなくなった。負けを取り返そうとしてサラ金に手を出したあとは、絵に描いたような転落が待っていた。

 多重債務に陥った孝典は、執拗な督促から逃れるために失踪し、名古屋に流れ着いて六年…。

 青いビニールシートに覆われた段ボールの小屋でも、家を持った喜びに変わりがないのがおかしかった。高速道路の高架が雨を防ぎ、公衆トイレが近くて、少し歩けば期限切れの弁当をくれるコンビニがある。

「これだけ条件の良い物件はそうそうありませんよ」

 ふいにあの時の不動産屋の囁きを思い出した。

「パパ、このおうちにしようよ」

 無邪気に笑った春香の声が聞こえた。

「娘さんを幸せにします」

 両手をついて孝典を見詰める青年の真剣なまなざしが浮かんだ。

 五十歳を二つ三つ越えた頃から、めっきり白髪が増えた。過去など無かったことにして路上生活を続けて来たはずなのに、無性に家族の温もりが懐かしかった。

(そうだ!婚約を破談にした詫びをしなければ…)

 アルミ缶を換金した数百円を握り締めて孝典は電話ボックスに入った。番号はしっかりと記憶しているというのに、プッシュボタンを三度押し間違えた。

「はい、松沢です」

 それは妻ではなく、春香の声だった。

「は、春香か?」

 春香だな?という孝典の耳に、しばらく沈黙が続いていたが、やがてそっと通話が切れた。百円硬貨が音を立てて戻って来た。その音が孝典の未練を断った。

 過去は、孝典が不在のまま続いているのだ。

「さて、今夜は新築祝いにカップ酒でも奢るか」

 ひとつ大きな伸びをした孝典は、空き缶を求めて勢いよく自転車にまたがった。