最後の歌声

 妻の久子に勧められて、以前から気になっていた喉の違和感を近所の診療所で訴えると、

「まあ、風邪だとは思いますが、念のため検査だけしてみましょう」

 笑って指示をした老医師は、レントゲン写真に顔を近づけて、

「ふむ…確かにちょっと気になる影がありますな…」

 険しい表情で大学病院に紹介書を書いた。

「早期に発見できて幸いでした。喉頭癌です。七十五歳という年齢で化学療法は負担が大きすぎますが、手術をすれば声を失って、喉に取り付けた笛で話しをしなければなりません。一長一短ですが転移が心配ですから、今週中にどちらにするかを選択してください」

 中堅の専門医は明日の天気でも知らせるようにあっさりと癌の告知をしたあとで、手術の方が確実ですよ…と付け加えた。

「手術の方が確実だそうだ」

 その晩、紀彦は自分の覚悟を久子に告げた。

 紀彦の母は緑内障を病んで、光を失ったままこの世を去った。骨を拾いながら、

「食べ物を粗末にすると目がつぶれると言っていた母が失明するなんて、世の中は皮肉なものですね…」

 紀彦のもらした慨嘆に、

「姉さんは、贅沢なお前の身代わりになったんだろうよ、随分可愛がっていたからなあ」

 叔父がつぶやいた一言が胸に突き刺さっている。

(今度は俺が陽一の身代わりになるのかな…)

 紀彦は、職の定まらない東京の一人息子を思った。

「おい久子、テープレコーダーはどこだ?」

「おや珍しい、テープなんかで何を聴くの?」

「ん?ちょっとな…」

 妻の質問を曖昧にしたままで、部屋にこもって懸命に吹き込む紀彦の歌を、久子はドアの外で聞いた。

「♪うさぎ追いし、かの山♪」

 この世で最後の夫の歌は、なぜか『ふるさと』だった。

 結局は転移していたのだろう。手術を終えてロボットのような声になった紀彦は、せっかく録音した自分の歌を決して聞こうとしないまま、二年後に肝臓癌で死んだ。

「お父さんがこっそり録音した最後の声よ」

 通夜の席で久子がテープを再生した。

 目を閉じて唇をかみ締めていた陽一が、堰を切ったように号泣した。