青年の傘

 ばたばたと転げるように階段を下りて来て、

「もう!起こしてくれればいいのにィ、遅刻するじゃない」

 素早く化粧を済ませて出かけようとする由美に、

「傘、持ってくんだよ、夕方には降るそうだから」

 達子が声をかけたが、

「天気予報なんか当たんないわ、青空よ」

 娘はコップ一杯の牛乳を喉に流し込んで飛び出して行った。

(父親にそっくりになって行く…)

 反対に達子に似て慎重で周到な和成の方は、事故や渋滞を恐れて三十分前には出勤して行った。

 もちろん言われなくても傘は忘れない。

 兄妹の性格が逆だったらいいのにと思う時があるが、女の子は男親に似た方が幸せになると言う。

(あんた、由美を幸せにしてやってね)

 近所のスーパーへパートに出かける前に、夫の遺影にちらりと視線を送るのが達子の癖になっていた。

 由美のお昼は会社の近くのそば屋に決まっていた。特別にそばが好きという訳ではなかったが、毎日同じ時間にやって来て天ぷらそばを食べる、紺のスーツ姿の若者の食べっぷりが好きだった。

(お父さんも、あんなふうに背筋を伸ばして、勢いよくそばをすすったわ)

 それが若者に対する好意であることに由美はまだ気が付いていなかったが、今日のように彼の姿がない日の午後は、つまらない映画を観た時のように物足りなかった。

 あんなに晴れ渡っていた青空は、四時頃からにわかに曇り始め、退社した由美が駅に歩き始めるのを待ち構えていたように降り出した。

 傘持ってくんだよ…という母親の声が聞こえた。

 こんな日に限って濡らしたくない服を着ていた。

 走ったつもりが足がもつれた。

 危うく体勢を整えた時、頭上で雨が止んだ。

 傍らで、紺のスーツの若者が傘を差しかけてくれていた。

「よく、そば屋で会いますね?」

 良かったら一緒に歩きませんかと言われた由美は、真っ赤になってうなずきながら、傘を忘れたことに感謝していた。