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美佐子のバッグ
年を取れば物忘れが増えるのは分かっていたが、八十歳を超えてからの美佐子の記憶は、いつも霧が立ち込めたように不鮮明だった。苦労して通帳を発見したら印鑑がない。改印手続きを終えたとたんに古い印鑑が見つかる。紛らわしいからと捨てたのが新しい印鑑で、現金を下ろそうとすると印鑑が違うと拒否される。再度改印手続きをして、二度と失くさないように印鑑と通帳を紐でつないで隠した場所を忘れてしまう。
こんなことの繰り返しだった。
「このまま認知症になるんじゃないかと心配になるさ」
同級生の達子に真顔で打ち明けると、
「みっともないから黙ってるけどな、美佐ちゃん、みんなあんたと同じだよ。んだで私は、年に一度、現金をまとめて下ろして、そこから月々の生活費を出すことにしてるんさ」
銀行みてえな小難しいところには、年寄りはなるべく近づかねえ方がええ、と笑い飛ばした達子に習って、美佐子はその日、思い切って百万円を現金にした。何に使うのかと窓口で聞かれたが、屋根の修理だと答えたらそれ以上は追求されなかった。家に戻った美佐子は、一か所に保管するのはさすがに不用心だと思い、三十万円の束を二つ、泥棒が入っても絶対に見つからない場所に別々に隠したとき電話が鳴った。
「もしもし、はい、あれま、今日はダンスの日だったかい。すっかり忘れてたさ。早速、支度しねばなあ」
いつもありがとなと電話を切って、手に持った四十万円をどうしようと考えた拍子に、分散した六十万円のことはすっかり忘れてしまった。美佐子はしばらく考えていたが、半分の二十万円をハンドバッグに入れ、あとの二十万円は腹巻きに忍ばせた。直接体に巻き付けていれば、これ以上安全な保管場所はない。福祉課が用意する教室で、有志の仲間たちと介護予防の社交ダンスを踊った後は、近くの喫茶店に集まって甘いものを食べながらおしゃべりをするのが週に一度の楽しみになっている。
「へへ、私も達ちゃん方式にしたさ」
代金を支払うとき、美佐子はこっそりハンドバッグの中を真由美に見せて、おどけたように肩をすぼめたが、背後で美佐子より五つほど年下の妙子が慌てて目を逸らした。
今日もダンスで汗をかいた。
週に一度でも仲間と楽しく体を動かす機会を行政が設けてくれているのは、一人暮らしの美佐子には有難かった。個人では仲間を募るのも、会場の手配も、定期に集まるのも難しい。年に一度はバス旅行も計画されている。それなりに費用はかかるが、施設に入所したり、長期に入院している同級生がいる中で、八十歳を超えて一泊旅行に参加できること自体が幸せだった。昨年久しぶりに開催された同窓会では、確か数人の仲間に黙祷を捧げた。年を取ると、結局、健康が財産なのだ。
トイレに入ろうとすると、入れ替わりに妙子が出て来た。
「あら、美佐ちゃん、みんなもう喫茶店に向かったよ。待っててあげるから一緒に行こ?」
バッグ、持ってあげると、明るく差し出された妙子の手に、
「ありがとな」
美佐子は不用意にバッグを渡した。
喫茶店ではクリームパフェを食べた。美佐子はいつものように代金を支払ったが、バッグの中の一万円札が一枚足らないことに美佐子は全く気が付かない。
終