身上監護(5)

 保佐人として川上すずを担当している早崎社会福祉士は、その晩、契約というものの危うさについて改めて考えていた。

 すずの甥は、すずの知らないところで、すずの名前でグループホームと入居契約を取り交わしている。それは完全に無効な契約である。すずの委任状に基づいて、すずの代理人として契約したのであれば一応の形式は整うが、委任もまた契約である。すずには甥と委任契約を結ぶ意思も能力もない。結局、契約能力のない者が契約を結ぼうとすれば、成年後見制度を利用して代理権で対応する以外に方法はないし、そのために成年後見制度は誕生したのである。

 しかし現実は、グループホームも特別養護老人ホームも、契約能力のない利用者に代わって、例えば長男が本人の名前で契約を交わすことが横行している。こんな無法が日本中の福祉現場で平然と行われて問題視もされないのは、双方に契約を有効とすることに異論がなく、不本意な施設入所を強いられた本人には契約の無効を訴える能力がないからである。

 ところがすずの場合は違っている。グループホームへの入居について、当事者であるすずの不本意が明らかであれば、すずに代わって保佐人が代理権の付与を得て、契約の無効を訴えことができるのだ。

 さらに、本人の通帳と印鑑を預かって財産管理を行っている保佐人には、すずのグループホームの入居費用を支払う義務があるが、現状では無効な契約により発生した費用を保佐人として支払うことについても、その正当性が問われることになる。

 原点に立ち返ろうと早崎は思った。保佐人は被保佐人の意思を尊重しながら財産管理と身上監護を行う仕事なのである。

「とにかく、グループホームに出向いてすずさんの意思を確かめて来ます」

 早崎は翌朝一番に、すずの入居しているグループホームに車を走らせた。

 その頃すずは、グループホームで初めての朝を迎えていた。

「すずさん。おはようございます、昨夜はよく眠っていらっしゃったので安心しました」

「おはようございます、すずさん。今日は午後からカラオケをやりますから、また『愛染かつら』を歌ってくださいね」

 職員たちはにこやかに挨拶をしてくれる。その上、会話の末尾には、立ち退き前にここが見つかって本当に運が良かったですねとか、新しく建てた家をお姉さんの息子さんに相続されるよりは、ここで楽しく暮らす方が絶対にいいですよねとか、必ずそう付け加えるために、ここに来た経緯は思い出せなくても、すずは自分がグループホームにいることを肯定していた。職員に手伝ってもらって着替えをした九人の住人が、次々と自分の部屋から広間に出て来て洗顔を済ませたときには、巨大なテーブルに朝食がずらりと並んでいる。席に着いて嚥下体操という早口言葉のようなものを大きな声で合唱してから、職員も一緒におしゃべりしながら食べる食事は美味しかった。

 しばらくはそれぞれに時間を過ごし、朝のラジオ体操が始まったとき、すずに来客があった。

「え?後見センターの早崎さん?」

 すずは早崎に見覚えがなかった。

「体操が終わるまで待っとってちょうだい」

 すずは体操をしながら大きな声でそう言った。