誤算Ⅵ

 敦子が自分の誤算を思い知ったのは、後見人に選任された石原という男性弁護士が特別養護老人ホームに美佐子を訪ねて来たときだった。

「樋口美佐子さん、初めまして、分かりますか?私、石原と申します。弁護士をしています。この度、家庭裁判所からあなたの後見人に選任されました。財産管理と身上監護に責任を持ちます。月に一度、事務員が様子を見に伺うことになると思いますのでよろしくお願いしますね」

 聞こえているのかいないのか、美佐子は起こした電動ベッドに背中を預けてぼんやりしている。もちろん石原が誰なのかも、後見人が何なのかも分からない。

「石原先生、母は前のグループホームで鎖骨と大腿骨を相次いで骨折して、歩けなくなってから様子が悪くなりました。申立ての書類にも書きましたが、損害賠償請求の件、くれぐれもよろしくお力添え下さい」

 敦子が頭を下げると、

「訴訟については改めて必要の是非を検討致します。その前にお母さまの財産関係の書類を提出願います。明日の午前、ご自宅にお伺いしますので、不動産登記書、株券、通帳、印鑑…あ、キャッシュカードも一緒にご用意下さいね」

「え?お言葉ですが、キャッシュカードは困ります。あれがなくては私の生活費が引き出せなくなります!」

「いえ、娘さんといえども、お母さまの通帳から勝手に現金を引き出すのは財産侵害に当たります。お分かりになりますね?悪質な業者や身内からの財産搾取を防ぐのが成年後見制度の第一の目的なのです。ここはひとつご協力頂かないと」

「財産搾取って、ちょっと待って下さい。詳しくお話ししないといけませんが、レビー小体型認知症と診断された母の症状が悪化し、日中一人にしておけなくなったので、私、仕事を辞めて介護に専念しました。母がそうして欲しいと言い出したのです。父の遺族年金と月十万円ほどの家賃収入で、貯えに手を付けなくても生活は何とかなる。母は金額まで計算してそう言いました。グループホームでは毎日通って母の世話をするように指示されていましたし、ここに移ってからも、なるべく頻繁に面会してやりたくて、仕事には就いていません。強いて言えば母の介護が私の仕事なのです」

 敦子は自分に収入のない現状を訴えたが、

「現在お母さまは施設で落ち着いて生活していらっしゃいます。美佐子さんの後見人としては、敦子さんにはお母さまの財産で生活する状況を脱して、一日も早く自活して頂きたいと思っています」

 石原はぴしゃりと本音を言った。

「それでは、私の生活費は…」

「ご自分の貯えを切り崩しながら、一日も早く仕事を見つけて下さい。選ばなければハローワークに仕事はいくらでもあります。それまで敦子さんには今まで通り美佐子さん名義の住宅に居住することを認めるつもりですのでご安心下さい」

「ご安心って、それは早く仕事を見つけて家を出て行けということですか?そんなこと母が望んでいるとは思えません」

「いえ、相応の家賃をお支払い頂く方法も可能ですよ」

 立っていられないほどの憤りに震える敦子の傍らで、美佐子がうっすらと笑ったように見えた。