目線と仕草

 今回はステージ上での仕草について考えてみましょう。

 以前、壇上では、会場という一人の友人に向かって話すつもりになろうと書きましたが、それは気持ちの問題であって、現実には目の前で複数の聴衆が講師を見ています。全員にまんべんなく視線を送る配慮が必要です。聴衆はチラッとでも自分を見られるだけで、講師と直接つながったという実感を持つのです。ニュースのアナウンサーが原稿を読みながら、頻繁に視線をカメラに向けるのも同じ目的です。目は口ほどにものを言うといいますが、目からは意志とか関心とか好意とか憎悪といったレベルのエネルギーが出ているのです。

 これは聴衆の側にも言えることです。壇上からは聴衆の顔がよく見えます。大半の聴衆が講師に「関心」という視線を送っている中に、目を伏せていたり、ステージの花や窓の外を見ている聴衆がいたりすると、講師の心は思いのほか乱れます。話がつまらないのではないか?と気弱になったとたんに、今度は講師の視線が力を失います。それは聴衆全体に影響を与えて、あとは悪循環です。いい話を聞きたければ、本当は聴衆の側にも、うなずいたり笑ったり、盛んに反応を示して講師をノセる技術と努力が必要なのですが、ここでは講師の側の講座を続けることに致しましょう。

 仕草についてです。

 学生時代、教壇の上の本や書類を何度も何度も無意識に揃えたり、メガネの端を、話の節目節目に持ち上げたりする癖のある教員がいませんでしたか?聴衆にとって講師の仕草は案外強い印象を残すものなのです。しかし、壇上で日本舞踊を期待されている訳ではありませんから、講師に許される仕草には自ずと限界や節度があります。

 そこで効果的なのが両手を広げる仕草なのです。

 孔雀を思い出してください。スリムな鳥が尾羽根を広げるだけで豪華で巨大な鳥に変身します。人間も、両手を広げると大きく見えるのです。壇上の講師なんて地味な存在です。黒っぽいスーツを着ていたりすれば、客席から見る講師の姿はつまらない花びんみたいなものです。

 たまには孔雀のように両手を広げて聴衆をハッとさせたいものですが、脈絡なく両手を広げるのは不自然ですから、話の中にそういう場面を設定しなければなりません。

「こんなに広い会場で・・・」とか、「胸いっぱいに空気を吸いこんで…」とか、「ザアッと雨が降って来て…」とか、「人生って素晴らしいではありませんか」とか、工夫すればいくらでも設定ができるはずです。これを、話の比較的初めの部分と最後の方に設定します。ちょうど孔雀がもう一度羽根を広げるのを、見る者が期待して待つように、目の前で両手を広げられることによって講師がただの花びんではないことを知った聴衆は、最後に再び両手を広げる講師の姿に理屈ではなく開放感を伴った大きさを感じるのです。

 話の内容に沿った仕草を取り入れて臨場感を演出するのは当然必要ですが、それとは別に、両手を広げて講師を大きく見せるテクニックを念頭に置きましょう。