意義から拾うエピソード

 前回はエピソードをつないで意義にたどりつく手法を紹介しましたが、今回はその反対で、訴えたい論旨が先にあって、あとからエピソードを拾い上げる手法を取り上げましょう。

 たとえば「豊かさは人心を荒廃させるのではないか」という論旨を訴えたいとします。それを具体的に示唆するエピソードを日常の中からすくい上げるのです。

 そういえば昔は、雨が降ると駅まで家族が傘を持って迎えに来るという光景があったけど、車社会になってから見かけないなあ…。

 セーターを自宅で編んで着ていた時代には、古いセーターの毛糸を母親と子供が共同作業でほどいたものだけど、ああして向かい合っている時に会話が弾んだなあ…。

 テレビのない夜長を家族でゲームをして過ごした思い出は懐かしいなあ…。

 日頃は貧しい食事だったから、誕生日に食堂に連れて行ってもらってカレーライスなんか食べると幸せだったなあ…。

 これくらいあれば十分でしょう。

「幸せな世の中になりました。しかし、豊かになって失われたものって大きいと思うんですよね。例えば、夜の駅や塾の前に自家用車がズラリと並んでいるのをよく見かけます。あれ、親が子供のお迎えに来てるんですね。雨の日なんか確かに車は便利です。濡れないし、足元の心配もない。しかし、昔は傘持って、歩いて迎えに来てましたよ。親と子が傘さして、ぬかるみをこう…よけて歩くんです。ほら、気をつけて、ここんとこ大きな水溜りがあるよ…なんてね。不便でしたが妙に暖かいんです。今は助手席に乗り込むなり、どうだった?テスト…なんて聞かれるの無視してスマホでゲームやってますからね。」

 「セーターなんか家で編んで着てませんでした?編んではほどき、編んではほどき。子供は成長しますから編む度にセーターはサイズを大きくしなければならないのですが、新しい毛糸が買えませんからね、貧しくて。違う色の古い毛糸を継ぎ足すんです。ですからセーターはたいてい横縞模様でした。糸を球にする時は親子が向き合ってですね、一方がこう…輪になった毛糸を両手で広げて持ち、もう一人が球に巻き取って行くんです。あれって、向き合っておしゃべりをするのにちょうどいい距離なんですよね。色んな話をしながら母と子の心は通っていました。今セーターほどいて編んだりしませんよね。豊かになって親子の心を通わせる機会を一つ失ったのです。」

「昔はテレビなんてありませんでしたよ。大人たちは内職をしていました。しかし、漫画にも飽きてしまった子供を可哀想と思うんでしょうね。たまに家族でゲームをするんです。七ならべとか、坊主めくりとか…。あ、取り将棋ってやりませんでした?将棋の駒を箱ごと将棋板の上に勢いよく伏せましてね、そっと箱をのけると駒のかたまりができるでしょ?それをこう…音を立てずに滑らせて自分の所へ持ってくるんです。カチッと音がすると交代ですから、みんなし~んと耳を済ませましてね。あ!今音がした!したよね!なんて…ああ、懐かしいですね。そんな団欒はテレビがすっかり奪ってしまいました。子供が夢中になっているテレビゲームを、おい、お父さんにもやらせろよって言いますと、大人はもう寝なさい!なんてね。情けないです。」

 「誕生日にバス乗り場の向かいにある大衆食堂に連れて行ってもらってカレーライスを食べました。あれうまかったですよ。福神漬けだけ母ちゃんにやってね、日頃貧しい食事で漬物は食べ飽きてますから、福神漬けには価値がないんです。ただの水なんですが、コップに入った水まで高級品のような気がしました。氷が浮かんでましたからね。今は豊かになりました。飽食の時代ですよ。誕生日にステーキ食べさせるぞなんて言いましても、子供から帰ってくる返事は、私ダイエット!ですからね。」

 「どうやら物質的な豊かさは人の心まで豊かにするとは限らないようです。むしろ便利になったり贅沢になったりすればするほど、人の心は荒れてゆくような気がします。もちろん豊かさを否定するつもりではないんですよ。もっともっと人間の暮らしは豊かになるのでしょう。ただですね、豊かさの持っている副作用を、ちゃんと認識していなければならないんじゃないかと思うんです」

 と言った具合です。

 今回は二回にわたってスピーチの意義とエピソードの関係についてお話ししましたが、いずれにしても基礎にはたくさんのエピソードを拾い上げるという共通の努力が必要ですから、どうか日常の生活を丹念に見つめながら生活していただきたいと思います。