抽象論はだめ

 次のスピーチを聞いてください。魅力的ですか?

「幸福についてはもとより主観的なものでありますから、いったん定義がなされれば、二度と覆らないとか、あるいは、なされた定義に合致しないからといって、それは幸福ではないと否定すべき性質のものではありませんが、一種の心理的状態であることには間違いないわけですから、万人に普遍的に存在する原理のようなものは発見が可能ではないかと思うわけです。

 そこで人間が幸福を自覚する場面を仔細に考察してみると、その人物の価値観に照らして好ましいと受け止められる感情の量的側面が、時系列的に増加したと実感できる時、それを人間は幸福として意識するのではないかと、こう考えた次第です。

 空腹を満たすことに価値を置く人が、昨日より本日において、より多くの食物を摂取したとすれば、彼は恐らく幸福を感じていることでしょう。空腹の次元を超えて、より美味なる感覚に価値を求める人物は、昨日より本日において高級な料理を賞味する機会を持った時、幸福感を得るに違いありません。権力や地位の向上に価値を見出す人物が昇格昇任を果たした場合、至福の喜びに満たされることでしょうし、賞賛を得ることに価値を置く人物は、ほんのわずかな他人の風評にも耳をそばだてて、自己の評価の高い事実を確認するや歓喜にうち震えるのです。

 しかし、いずれにしても比較の上に成立する幸福であることには違いありません。比較である以上、より高い状態と比較する事態が出現したとたん、一気に不幸の辛酸をなめるという、まことに脆弱な幸福観であるとも言えるわけです。何事にも揺らぐことのない、真の幸福観を確立したいものだと存じます」

 書けば格調高いですね。しかし、これを延々とスピーチされたらたまりません。なぜでしょうか?理由は簡単です。終始抽象的で聞く者の脳裏に映像が結ばないからです。学者や政治家の演説に魅力あるものが乏しいのは同じ理由です。特に頻繁に使用される漢字の熟語は感心致しません。目で見れば雄弁な熟語でも聴覚だけで理解するのは大変です。スピーチは具体的に、平易な話し言葉を用いて行う方がいいのです。

「幸せって一人一人違いますよね。いつまでも布団の中にいるのが幸せな人もいれば、目が覚めるや否や生産的なことをしていないといられない人もいます。そういう二人が夫婦やってると大変ですよ。我が家のことですけどね。私は日曜でも早々と起きるとパソコンに向かって何か原稿書きながら、バカがいつまでも寝てやがる…なんて思ってますが、カミさんはカミさんで、もう起きてゆく…バカねえ、早死にするわよなんて思ってる。まあどちらが正しいという問題ではありません。ミスマッチというところでしょう。

 しかし、そもそも幸せってものは比較の問題ですよ。

 カネがなくて、ずっと満足に食べてないホームレスが、たまたま公園で五千円拾って、ラーメンにカツどんにビールまで付けてたらふく食うと、その日はメチャメチャ幸せでしょう。ホームレスじゃなくてもですよ、うまいもの食い飽きたカネもちが、たまたま入った高級レストランで、今まで食べたこともないような美味しい料理に巡り合ったらとしたら、これまた幸せでしょう。あんた!いつまで係長やっとんの!と言われて張り切ってですね、少々熱があっても毎週毎週部長のゴルフバッグ担いだお父さんはですよ、春の人事異動で課長補佐になったりすると幸せでしょう。褒められたくってしょうのない人ってのもいますよ。いやぁ凄いねえ、女子社員の人気投票で君の名前が結構上がってたそうだけど、君とぼくは一体どこが違うんだろうね、うらやましい…なんて言われようもんなら、今夜一杯どう?そういう人はおごりますよ、嬉しくて。

 しかしですね、ホームレスは五千円使い果たすと一層不幸せになります。美味しい料理に飽きたカネもちは再び空しさに襲われます。課長補佐は、同期が課長になったのを知ると一遍に惨めになります。例の褒められたがりは、二、三人が口を合わせてこの頃、お前、評判悪いよとささやくだけで会社を休みます。

 何かと比較して幸せになっていたんでは、どうしても不安定なんですよね。不惑の年、つまり四十歳までには何とかして揺らがない幸福観を持ちたいものだと思いますが、そんなことを考えながら私もう五十二歳です」

 どうですか?随分変わるものでしょう?

 スピーチに抽象論は厳禁であることを忘れないように致しましょう。