体験と普遍性

 稀少価値という言葉があります。

 たとえばダイヤモンドのように、たとえば松茸のように、たとえばキャビアのように、たとえばオリンピックのゴールドメダルのように、世の中にわずかしかないものには価値があるのです…とすれば、あなたの体験はあなたしか持っていないのですから、とりあえずこれ以上稀少なものはないでしょう。

 しかし、価値があるかどうかということになると別問題です。

 たとえば横丁の源じいさんが大切にしているピカピカに磨き上げた流木の根っこは、世界にただ一つのものですが、恐らく源さんが死ぬと一緒に棺に入れて燃やされてしまうでしょう。たとえば筆まめな筆子さんが学生時代から書き溜めた膨大な日記帳は、世界でただ一つのものですが、今朝は七時に起きて、天気は曇りで、午後から酒屋さんが売掛金を取りに来て…といった内容は、家族の間でも価値を持ちません。

 体験は聞く者がその中から普遍的な教訓なり感慨なり共感なりを抽出できるように提示された時、初めて価値を持つのです。

 太郎さんは、徳川美術館を見てきました。絢爛たる彫金技術を駆使して作成された家具調度や、職人の総力を傾けた金屏風や、実用品ではなくて芸術品としか思えないような蒔絵の文箱の素晴らしさを言葉を尽くして説明した後で、

「本当に素晴らしかったです」

 と結んだのでは筆子さんの日記と同じです。聞いている者は、近所の主婦の無駄話に延々とお付き合いをさせられた時のような時間の浪費を感じて不愉快になりますが、次のように展開したらどうでしょう。

「それにしても、あれだけのものが徳川という一つの家に集中して遺されているという事実を目の当たりにすると、財力もさることながら、権力というものの凄まじさを感じます。世界の歴史を見ても、建築から絵画、彫刻、音楽に至るまで、権力によって飛躍的な進歩を遂げた時代がありました。現代は大衆という権力が芸術を育てている訳ですが、果たして百年先の我々の子孫にどれだけ風格ある結果を遺し得るものか、はなはだ不安な気持になりました」

 これなら前段の美術館の描写、つまり太郎さんの体験は、普遍性という大河に合流して聞く者をなるほどとうなずかせる力を持つでしょう。

 体験は強い。しかし、どんなに数奇な体験であっても、普遍性という光を当てなければ無駄話になるということを念頭に置きましょう。