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青砥武平治 ( あおとぶへいじ ) Buheiji Aoto 村上市



村上の鮭 青砥部平治

🔗青砥武平治 🔗青砥武平治以後

古い時代には日本海に注ぐ川はほとんど鮭が獲れており、越後は古くから鮭の漁獲をおこなっていた。
平安時代の中期法典「延喜式」(延長6年 927年成立)には越後国が納める物品の中に鮭が定められており、鮭が越後の代表的な産物であったことがわかる。
また、永万元年(1165)越後国司から出された「国宣」の起案文書の部分で、瀬波川(三面川)の鮭漁について、瀬波川は国領であるから、土地の豪族などが勝手に漁獲してはならないと記している。
1194年(建久5)2月14日 北蒲原郡加地の地頭佐々木三郎盛綱が源頼朝に土産として生鮭を献じたという記録が残っている。
江戸時代に入って各藩では鮭漁に対して役(税)を課しており重要な財源となっていた。村上藩では藩主堀直竒が1619年(元和5)に鮭の子の捕獲を禁じ鮭の保護策をおこなっている。
村上では初めのころは役を賦課していたが、寛文(1661-1673)榊原氏が藩主のころ運上金の制度を三面川の村上町分に限って行うようになった。運上金とは村上町の大年寄に命じてその年の鮭の漁獲の入札をさせ、落札額を納入させる金額である。これが藩の重要な財源となっていた。
松平氏が藩主のころ(1712-1717)には250両以上もあったものが年をおって減り、内藤氏が藩主となった1736年(元文元)には僅か5両となり、1738年(元文3)には鮭漁の停止を命じている。

青砥武平治

青砥武平治 正徳3年(1713年) 〔生〕- 天明8年(1788年)〔没〕

三面川の鮭を村上の特産物にまで確立したのが、今から250年ほどさかのぼる江戸時代、村上の下級武士であった青砥武平治であった。
正徳3年(1713)に内藤氏村上藩士金沢儀左衛門の二男として出生。幼い時に青砥冶兵衛の養子となった。
享保12年(1727)、二人扶持3両で初めて帳付格の役を得る。
延享2年(1745)に「郷村役」を拝命し、漁業などを統括する役目を任された。部平治は藩邸で事務職をすることよりも、常に現場を歩き回って考えるタイプだったという。種川の法も河川を調べて灌漑工事の測量などするうちにひらめいたアイデアだったかもしれない。

「種川(たねがわ)の制」
鮭は生まれた川に帰ってくるという、その時代に誰も考え付かなかった回帰性に武平治は世界で初めて気付いた。
鮭の産卵と稚魚を保護するための施設として、三面川下流域に蔦や柴で柵を造り、ここでサケの遡上を阻止し、種川に分流させる。種川には細かな砂を敷いた浅瀬の産卵場を作り、自然に産卵させて、産卵後はまた元の本流にかえす方法だった。
これまで藩の鮭の資源保護は稚魚の捕獲禁止制など消極的な方法しかなかった中で、適正な条件の産卵場所を人工的につくる積極的な資源保護を考えたのは画期的であった。

当時の村上藩主内藤信凭は青砥武平治のこの提言を取り入れ、三面川を3方向に分流させ、そのうちの1本でサケを囲い込み、「種川」という養育地を造るための河川工事を命じた。宝暦13年(1763)に種川掘削のための川普請が始まった。工事は、試行錯誤を繰り返しながら進める難事業であった。
武平治は直接工事を担当することはなかったが、明和3年(1766)、54歳のとき、種川の功績が大きく評価され70石取りの上士にまで昇進した。
工事は、武平治の生存中に完成することはなかったが、彼の遺志を受け継ぐ人によって寛政6年(1794)に完成をみた。
寛政8年(1796)に、鮭のその年の漁業権が千両をこえる運上金で落札された記録が残されている。当時の1000両は、禄高でいえば1500石相当であり、藩にとっては大きな財源となった。

まだ誰も鮭の増殖など考えもつかなかった時代に、世界初の自然ふ化増殖を成功させた青砥武平治は、村上の鮭文化に大きな足跡を残した偉人と言える。

幕領村民との紛争
種川掘削工事が本格的に始まると、三面川の上流にある天領住民との間で紛争が起こった。これまでも村上藩が人工養殖の実験中を理由に密柵をして上流への鮭の遡上を妨げていた。これに不満を抱く上流の岩沢・新保・荒屋村の住民は、しばしば徒党を組んで密漁したり、舟でやって来て柵をこわし、漁具を流すなどして漁場を荒らした。
安永2年(1773)、村上藩は幕府領の漁民に対して、「上流のものの立ち入り禁止、漁獲禁止」の高札を立て、前面禁漁の対抗策に出た。上流三村は、天領預りの米沢藩を通じて幕府評定所に村上藩の横暴を訴え出た。こうして”鮭裁判”が勃発した。
安永3年(1774)、幕府は村上と上流三村の漁民を江戸評定所に呼び出した。このとき、村上方漁民に付き添って上京したのが青砥武平治だった。青砥武平治は評定所で、情理を尽くして種川掘削の努力と資源保護を訴えた申し開きを行ったと思われる(三面川鮭漁争論)。村上藩漁民は全面勝訴し、逆に訴訟を起こした上流三村は越境して密漁したとして過料銭が科せられた。同年8月、藩は武平治の功績を賞し、は銀3枚を下し褒賞した。

武平冶は、「郷村秘要集(ごうそんひようしゅう)」、「家言之弁(かげんのべん)」を著し、民衆の統治と農業振興、租税制度などについて藩へ献策している。
宝暦12年(1763) 、藩では異例とも言える70石を給され石取り侍にまで昇進した武平治は、村上藩飛び地領の三条の代官の要職にに任じられた。
天明2年(1782) 御役御免となり、天明8年(1788)、76 歳で亡くなっている。

三面川の河畔「鮭公園」に、鮭が遡上する三面川の河口を望むように青砥武平治の立像が建っている。

種川は昭和52年(1977)に川幅3mほどで一部復元・改修された。
イヨボヤ会館の地下にある三面川鮭自然観察館観察の窓からは、三面川の分流「種川(たねかわ)」の水中の様子を自然のままに「観る」ことができる。

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青砥武平治による事業以後

その後鮭の漁獲は増加し、運上金の額は逐年増加し、幕末には2000両を超えた。
明治になって廃藩置県で路頭に迷った旧藩士たちは政府に願い出て鮭魚業を行い、明治11年(1878)、アメリカの人工ふ化技術を日本ではじめて取り入れ、鮭の産卵場を建て人工孵化事業を始めたが、民間営として国内では一番古いものである。
旧藩士たちは、「村上鮭産育所」という組織を設立し、1951年(昭和26)まで漁業を続け、それから上がった利益で子弟の教育費の援助を行ったので、学資の補助を受けた人たちを俗に「鮭の子」という。三面川で鮭の漁獲の一番多かった年は1884年(明治17)の73万7376尾であった。
「鮭の子」の奨学金を受けた者の中に、乃木大将の通訳を務めた川上俊彦、「皇子傅育官長」に任命された教育者三好愛吉や、後の法務大臣となった稲葉修、小和田毅夫(外交官小和田恆の父)などがいる。
孵化事業はその後県営の孵化場も建てられ、1000万粒以上の採卵孵化を行い、三面川はもとより県内の各河川や県外にも送られた。
昭和38年(1963)、当時3つの漁業協同組合が団結し三面川鮭産漁業協同組合を結成、ふ化事業の合理化を進め、さらに昭和52年(1977)には村上方式といわれる海と川の漁協が協同でさけ資源を守り増やす施策を導入し、捕獲高も近年顕著な減少傾向を示していたが2015年(平成27)には50000匹に復活した。

鮭は、頭から尾、内臓まで何一つ捨てることなく使いきる。鮭料理には「川煮」「昆布巻」をはじめ、加工品としては「塩引き」「酒浸し」などがある。 村上では、鮭の料理は100種類を超えるという。
「塩引き」鮭づくりでは村上独特の包丁の入れ方をする。まずエラを取り除き、次に腹を裂いて内臓を取り出す。この時、「切腹」を嫌う城下町らしく、必ず腹の中心部分をつなげたまま割く「2段開き」という方法をとる。また他の地域とは違って首を下にして尾をつるすのも「首つりさせない」ためだ。

村上市では、市の日制定委員会が 鮭のよさをもっと知ってもらおうと、1987(昭和62)年に、11月11日を「鮭の日」に制定した。(「圭」を分解して十一月十一日)
その後、平成15年には日本記念日委員会から正式に 「11月11日は鮭の日」として認定された。 、

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