村上のお茶 Murakami tea 村上市
🔗徳光屋覚左衛門 🔗村上茶茶摘(村上茶の歴史)村上はわが国最北の生産地として知られている。その起源は1620年(元和6)に村上町の大年寄徳光屋覚左衛門(土田氏)が伊勢詣りに行ったとき、彼の地が盛んに茶樹を栽培しているのを見て、これといった産物のない村上の産業とすることができないものかと考え、種子を持ち帰って自ら播種したのが始まりとされている。発芽した茶樹は気候や土壌がてきしたのかよく生育したので、さらに種子を購入して多くの人々に播種を勧め栽培方法を指導した。藩の奨励もあって次第に広まったという。村上藩主堀丹後守直竒は茶の湯を好み自製の茶をつくることを積極的に奨励した。一説には直竒が宇治からとりよせた茶実を江戸の邸内に植えさせ芽が出たのでこれを村上にひろめたとも伝わる。 当時の製茶法はつまびらかではないが、黒蒸茶(番茶と煎茶の中間位のもの)と称するものが作られていた。 1674年(延宝2)藩主榊原政倫が役銀を課しているところから、当時において既に茶園がかなりひろがっていたことが推測される。茶畑の面積は1681年(天和元)ころには80ha、1704年(宝永元)には110haにも達した。 若芽を摘んで作る鼈甲茶が作られるようになったのは元禄(1688-1704)のころ佐藤儀左衛門がはじめて茶芽(新芽)を摘採したといわれている。 当時、茶の旅出(移出)も行われ、茶に対する役(税)も課せられていたが、茶園経営による所得が少いため、茶畑を田に改める者が出て来た。1705年(宝永2)本多吉十郎忠孝が入封してから、茶役は免除された。 (滝波重兵衛による村上茶の中興)文政(1818-1830)ごろ滝波重兵衛が若芽を摘む真摘製を中興し、釜煎茶の製法を取り入れて品質の改良をはかる。1842年(天保13)、藩主内藤信親は茶業の衰頽をうれい、国産係をおいて茶樹の栽培と製茶の方法を研究させ、滝波重兵衛を製茶売弘め方に命じた。 1851年(嘉永4)には滝波重兵衛は旅出茶取締(他領に移出される茶の価格その他を取締まる役)に任ぜられた。 1859年(安政6)に滝波重兵衛は山城から職人を招いて宇治の玉露の製法の伝習を受けたが、さらに数年職人を招いて技術の向上と品質の改良に努めた。これによって他地方への移出も盛んになった。 1866年(慶応2)重兵衛は矢部仁三郎・佐藤市兵衛等と図り、横浜の茶商高木栄助と村上茶の販売について契約して販路の拡張をはかったので製茶業がとみに盛んになった。 明治の初期には栽培地は次第に拡大され、茶畑面積は郡全体で650ヘクタール、村上町だけでも400ヘクタールを占めていた。当時の茶専業者は茶畑の買入れ又は播種によって自己の茶園をひろげて自園自製の経営の道をつくりあげていった。 1878年(明治11)には三井物産会社の手を通じて米国への輸出も行い好評を博したと云われる。また村上製茶会社を創立し一時的ではあったが紅茶の製造もおこなった。 その後、日本郵船会社等と契約して瀬波港からの積み出しなども行われた。 1890年(明治23)には磚茶の製造を始めた。磚茶とは番茶、茶の茎、紅茶屑などの粗悪な茶を蒸してから強圧を加え、板状に圧搾して乾燥したものである。磚茶や緑茶をウラジオストックへ輸出することも始められ、明治から大正にかけては村上茶の全盛時代であった。 第一次世界大戦(1915~1918)後の世界的恐慌により、不景気から茶業も輸出不振となった。更に製茶機械の出現によって手繰法から機械製茶への変化に対応できなかったり、国鉄羽越線の開通により産業構造が変化してゆき、茶業が衰退する原因となった。 前記鉄道の開通は村上の社会構造を少からず変化させ、茶園においても地主の思惑によつて桑園、果樹園、桐畑、水田、普通畑等に転換された。市街地の発展も茶畑が主に住宅地に隣接していることから、宅地や公共施設に使用され、茶畑面積は減少する一方となった。 茶畑面積は現在では25haほどに減じたが、茶畑所有者が製造業者であり販売業者であるという特異な経営で、栽培技術と製茶法の改良を重ね、村上茶の名声を維持している。 以前は県内では新津・村松方面も茶の産地であったが、今はなく姿を消した。いずれも村上茶の子孫であったといわれる。雪国の茶産地村上は特異な存在である。 (村上茶の特徴)良質の茶は現在でも動力を用いない摘採法が行われている。村上茶の風味の特色は甘味があり、ふくよかなまろやかな味わいである。又、出が長くきくこともあげられる。宇治の茶種より導入され、寒冷地ではあるが高湿の土地に栽培され独特の風味をかもし出している。一般に良質の茶を産するには、ある程度茶樹の樹令が古い方がよいといわれるが、当市の茶の平均樹令は150年以上で、なかには300年以上の木もあって一部専用茶園では改植が開始されている。 茶は、気象条件がその育ち方に大きく影響する。一般に年平均気温が11度(C)が栽培の北限とされているが、経済的に茶の栽培がひきあうのは、茨城・栃木・群馬・新潟の四県を結ぶ線の以南といわれている。村上市より北の秋田県能代市や岩手県大船渡市でも小規模な栽培はされているが、商業として成り立っているわけではない。 村上地方は新潟県でも最も北端に位置しており、村上茶は集団的に栽培されている北限となっている。茶の栽培が制限を受けるのは主として冬の最低気温であるが、村上の年平均気温は12.7度。冬の厳寒期でも零下以下に下るのは数回しかなく、発芽期の温度は比較的高いので、発芽後の晩霜の害をうけることは非常に少い。 また茶の植栽間隔を広くとり、降雪前に冬の寒さに備えて土を樹の根元に寄せ上げて雪害を防いでいる。 降雨量は年間2、402ミリであり、春から秋にかけて曇天が多く、又発芽期の前後には霧のかかる日が多く空気は湿潤であり、良質の茶を産する条件を有している。 村上茶は、他産地にくらべ寒い冬の季節が長く、年間の日照時間が短かく、炭酸同化作用がおだやかで渋味の素であるタンニンの含有量が少なくなり甘味が強く感じられる。 また、他産地の茶樹が単一品種で栽培されているが、村上茶は長い間の自然交配による寒冷地向きにできた混合茶樹で栽培されている。 このことは味の点でも他産地がストレートの味なのに対し村上茶はミックスブレンドで、独特なまろやかな味が生み出され高級な村上茶として親しまれている。 (今後の茶業)近年における茶業向の労働力の不足が生産に大きな問題をなげかけている。茶はもともと中小の工場で地道に生産されている。摘採の方法、蒸熱後の揉捻作業等は現在では特別の場合を除き機械化され合理化されてはいるが、それにも拘らず労働力の不足は茶業の運営にとり極めて大きな影を投げかけている。🤩2019年3月、村上茶老舗の冨士美園が本店に体験型カフェをオープンする。本店にカフェと工場見学スペースを新設する。本店工場を改装し、古い町家の雰囲気を楽しみながら、客が急須で茶を入れて飲めるカフェを開業。本店隣に移設する工場は、見学しやすいガラス張りにする。 🤩2022年5月、村上茶を楽しめる御茶サロン『茶館きっかわ嘉門亭』が村上市大町にオープン。 🔙戻る
雪国紅茶明治時代、海外との貿易を盛んにしていた日本の輸出品は、一に絹、二にお茶だったという。北限の茶どころとして知られる村上では、特産のお茶のほかに紅茶も作られたが、輸出の衰退とともに大正時代には製造が途絶えてしまった。それから約百年、『幻の紅茶』を復活させたのが富士見園の雪国紅茶だ。雪国・村上のお茶は、寒さや日照時間などの関係から、南の茶所に比べてまろやかな味わいで、香りが立ちやすい特徴をもっている。その茶葉から作られる紅茶も海外産に比べ渋みが少ない。ミルクや砂糖は加えずストレートで味わうと、雪国紅茶やさしくふくよかな香りがよくわかる。 ≪徳光屋覚左衛門(とくこうや かくざえもん)≫江戸前期,越後国村上茶栽培の元祖。姓は土田。徳光屋は屋号。「とくみつや」ともいう。村上町の町人、大年寄。寛永11年(1634)6月26日〔没〕覚左衛門は村上上町に住み、名君といわれた堀丹後守直竒の町づくりと殖産に協力した。 通説では、元和6年(1620)年伊勢参宮の帰途、宇治に茶樹が広く栽培されているのをみて、茶による村上地方の興隆を計画し種子若干を持ち帰ったという。 しかし、当時その土地の特産物の種子や苗木を他国に無断で持ち出せば、罪に問われる時代である。覚左衛門が茶の種子を簡単に持ち出せたとは思われない。 村上の殖産を図ろうとした丹後守直竒が覚左衛門にお墨付きを持たせ取り寄せたか、直接丹後守直竒が手に入れた種を覚左衛門に下賜したのではないか。 いずれにしても覚左衛門は畑作人らに勧め植えさせ普及をはかった。その晩年には茶畑は数十町歩まで発展するに至り村上茶の基礎を築いた。 嗣子の2代覚左衛門が事業を継承、寛文年間(1661~73)に蒸して天日で乾燥させたと思われる黒蒸茶を創製すると、村上茶として珍重され、名声は隣国におよんだ。さらに茶畑保護のため瀬波海岸に砂防林を設け、今日の発展の基礎を築いた。 覚左衛門は晩年は夫妻で東林寺の前身の桂岩山妙心庵に隠居して余生を楽しんだ。現在東林寺内に夫妻の墓があり、絹本彩色の自画像を残している。 🔙戻る
村上茶茶摘毎年5月になると新芽が芽吹き、村上市は茶摘で活気にあふれる。一番茶を摘んだあと、40日ほどで次の芽が出て、二番茶、三番茶と摘んでゆく。茶摘の時期にあわせ、城下町の春を満喫できる体験企画も開催される。 🔙戻る
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