粟ヶ岳 Mt. Awagatake 加茂市
🔗宗良親王 粟ヶ岳は、加茂市と三条市の境、県のほぼ中央、新潟平野の前面に立つ。 川内山群の中の最高峰で標高1,293mの山である。 三条市下田地区では山容から「三峰山」「三頭山」と言われていた。加茂七谷地区では、延喜式内青海神社に縁のある青海郷発祥の地とされ、この地区の最高峰として「青海岳」、また残雪雪形から「牛形山」と呼ばれる。 粟ヶ岳という山名は、四国阿波の国から仙真法師が携えてきた薬師如来を三峰腹に祀ったことから、「阿波ヶ岳」と呼ばれたことがもととなっている。 日本三百名山の一つ。 登山道は2コースあり、三条市からバスを利用し、奇勝八木ヶ鼻の絶壁を仰ぎながら南五百川から祓川に沿って登り粟薬師堂を経る尾根道と、加茂市から水源池を起点に砥沢峰を越える道が数本ある。登りに3時間から4時間必要で、体力の消耗を強いる本格的な山である。ともに登高砂差1100メートル余である。 2万年前の古生層からなる隆起山脈で、植物は希少種が多い。三合目付近からは、弥彦山、角田山、佐渡島を望むことができる。砥沢の峰の粟ヶ岳ヒュッテは、平成元年(1889)に建て替えられ、現在では20名ほど宿泊できる。 頂上は、二等三角点の標石と山名が刻みこまれた方位盤が設置されている。眺望は素晴らしく、白山から權ノ神岳と川内の山々が波打ったように拡がりを見せ、浅草岳、守門岳と大パノラマを楽しむことができる。好天に恵まれた日には、遠く飯豊連峰、磐梯山などが望まれる。 また、加茂市側水源池第1ダムの水面に映る粟ヶ岳は、四季折々に美しい表情を見ることができる。6月ごろになると登山道に沿ってヒメサユリが咲き始め目を楽しませてくれる。ここには、粟ヶ岳県民休養地があり、登山道、ハイキングコース、キャンプ場などの施設が整備されているほか、炭焼体験施設もある。 🔷三条市北五百川コース このコースは粟ヶ岳の名の由来ともいえる粟薬師が途中祀られている。 登山口には20台ほど置ける駐車場がある。水路沿いの道を進み祓川にかかる橋を渡ると登りの始まりだ。 45分くらいで少し広い台地に出る。ここは『元堂』といわれ、粟ヶ岳は霊山として女人禁制の時代があり、この地はその足止め跡だ。 守門岳を見ながら尾根道を進むと、昭和39年の新潟地震で沢へ落ちてしまった『粟石跡』に出るが、この近くに『薬師ノ水場』がある。 美しいブナ林が続く中、『粟薬師奥ノ院』と『避難小屋』が建つ広場に着く。ここまで登山口から1時間半だ。ここから少し登ると、標高625メートルの『分岐点』である。 尾根上を『天狗ノ水場』をすぎると、展望もいい。ササと灌木の斜面を登り切ると九合目に着く。ここから最後の急坂をいっきに登れば粟ヶ岳山頂だ。 🔷加茂川貯水池コース 中央登山口のある第2ダムで、付近に10台ほど駐車できるスペースがある。 ダムの堰堤を渡り、標柱「粟ヶ岳入口」の所より登る。 早春には、イワウチワやタムシバが咲き、サイゴクミツバツツジやヤマツツジが競って赤い花をつける。またウグイスの鳴き声も聞こえる。 カタクリの咲く登山道を進むと、第一ベンチのある3合目、標高485メートルで長瀬神社からのハイキングコースと合流する。 標高716メートル付近第二ベンチのある『大栃平』で展望が開け眼下に小俣沢、前方に守門岳、後方には白山、宝蔵山が眺められる。オオカメノキとサラサドウダンがコントラストをなす。 左砥沢側の『粟庭』と呼ばれている岩場を、鎖を頼りに登る。慎重に登っていくと、やがて突起した6合目標高910メートル付近『粟庭の頭』にでる。ガレ場を過ぎ(途中、右奥へ70メートルほど進むと水場に出る)砥沢峰を目指し、登り切ると7合目(標高1049メートル)砥沢の『粟ヶ岳ヒュッテ』に着く。 ここから登りはかなりきつくなり、この急登を終えると権ノ神岳への分岐点がある『北峰』に出る。残雪にマルバマンサクが咲き、6月頃にはウラゲコバイケソウも見られる。 眺望を楽しみながら中峰のピークを越えると、山頂に着く。(案内図) 岳山城跡足利尊氏と南朝が戦った南北朝時代、後醍醐天皇の皇子宗近親王は、正平6年・観応2年(1351)に鎌倉を占領し征夷大将軍に任じられたが、結局北朝方に敗れ、新田義宗らと越後で再起を図る。その際、ここ加茂七谷を拠点として活動し築いたのが岳山城と言われている。しかし武運つたなく北朝方に追われ、信濃の国大河原に戻る。晩年は吉野に戻って、弘和元年・永徳元年(1381)に、『新葉和歌集』を長慶天皇に奉覧して以後は確たる記録が残されていない。一説では、この地七谷に身を潜め亡くなったとも言われる。ハイキングコースを上った位置にある。 ☯2019年4月20日・21日、山岳を駆け上がるタイムを競うスカイランニングの世界大会がおこなわれる。
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宗良親王後醍醐天皇の皇子。二条派の代表的歌人で、南朝歌壇の中心であり、准勅撰和歌集『新葉和歌集』の撰者となった他、私家集に『李花集』がある。生年は応長元年(1311)と推定されている。北朝との戦いに一生を捧げた皇族であった。父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗った。 建武2年(1335)から始まった南北朝の騒乱で、楠木正成、名和長年、新田義貞など頼みとする武将を失った南朝は、最後の望みを九州や東国の味方の結集にかけた。その命を受けて宗良親王が吉野を出発したのは、延元3年(1338)28歳のときである。延元3年暦応元年(1338)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊より陸奥国府へ渡ろうとするが、座礁により遠江国に漂着し、井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せる。 興国元年暦応3年(1340)に足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、興国2年暦応4年(1341)の春、越後に入り、順徳天皇や源義経も身を寄せた寺泊の五十嵐氏を訪ねた。近くの岩室には南朝方の豪族小国氏の天神山城(※地図 ※ストリートビュー)・松ヶ岳城(※地図 ※ストリートビュー)があった。ここで新田義宗や五十嵐氏らと、南朝の起死回生策を謀議したと伝えられている。 まもなく北朝方の攻撃が始まった。まず守護上杉氏が津南町の新田氏の館を襲い、下越でも色部氏、加治氏、和田氏らの揚北衆が新潟市の蒲原津城(※地図)、さらには村松町の雷城南北朝時代の菅名庄の豪族河内氏の本城である河内城とも (藤倉城とも)(※地図 ※ストリートビュー)を攻め、親王を奉じる小国氏・河内氏を破り、小国氏は親王と共に寺泊へ、河内氏も加茂へ敗退した。寺泊で詠んだ親王の歌は、そのころの心境をよく表している。
ふるさとと聞きし越路の空をだに
興国3年康永元年(1342)、越後での拠点を失い、越中石黒氏の招きで越中牧野の地に移り住む。興国5年康永3年(1344)に信濃国伊那郡の豪族香坂氏に招かれ、大河原に入った。宗良親王はこの地を文中2年応安6年(1373)までの約30年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国や武蔵国にも出陣し、駿河国や甲斐国にも足を運んだ。なほ浦とほくかへる雁がね あら磯のほかゆく千鳥さぞなげに たちゐも波のくるしからむ 正平6年観応2年(1351)に足利尊氏が一時的に南朝に降伏した正平一統の際には新田義興新田義貞の次男で義宗の兄とともに鎌倉を占領する。翌正平7年文和元年(1352)には征夷大将軍に任じられたが、小手指原の合戦に善戦するも、結局鎌倉を占領し続けることはできず、新田義宗と共に越後で再起を図る。戦いの際「君がため世のため何か惜しからむ 捨ててかひある命なりせば」と詠じた歌に、親王の決意が示されている。 河内氏の本拠地加茂へ移り、粟ヶ岳山麓の高柳城(※地図 ※ストリートビュー)・岳山城などに潜居したといわれる。村松や加茂の山々で冬を過ごした親王の歌につぎのようなものがある こえぬまは越の白山しらざりつ
文和2正平8年(1353)11月8日、新田義宗・脇屋義治と共に古志郡乙面(出雲崎)赤坂山城(※地図 )に籠り防戦したが、高八郎師貞・和田義成らの大軍の攻撃を受けて敗れる。かくまで雪のつもるものと 何ゆゑに雪みるべくもあらぬ身の こしぢの冬をみとせ経ぬらむ 山にてもなおうき時のかくれがは ありけるものを岩かけの道 文和3正平9年(1354)9月23日、新田義宗・脇屋義治らと堀之内の宇加地城越後北朝の武将として活躍した宇都宮氏の重臣・多劫肥後守の要害(※地図 )を攻撃するが揚北衆中条茂資に敗れる。 文和4正平10年(1355)4月7日、脇屋義治と志都乃岐荘・木野島・大島荘平方原に揚北衆の和田茂資と戦う。長岡市の蔵王堂城揚北衆の中条氏が本陣としたの戦いにも尊氏党の揚北衆に敗れた。 そしてふたたび信濃の国大河原の地に戻り、8月に信濃国塩尻の桔梗ヶ原の合戦で北朝方の信濃守護小笠原氏に敗れた親王は、同国伊那の山中大河原に身を隠すことになる。有力氏族の離反により南朝の勢力は大幅に低下してしまう。 大河原の地でなおも南朝方勢力再建を図ったと思われるが、正平23年応安元年(1368)、新田義宗が越後で挙兵したのを機に出陣するが、上野沼田荘で敗北(武蔵野合戦)。義宗は戦死し、脇屋義治は敗走という結末となった。 親王がむなしく吉野に歴着したのは応安7文中3年(1374)64歳の時であった。36年の歳月が過ぎ、なじみの人々もすでになく「おなじくは共にみし世の人もがな 恋しさをだにかたりあわせむ」と詠んだ。再び出家し、「季花集」や「新葉和歌集」を完成させると、弘和2年(1382)72歳の時、親王はいずことも告げず旅に出た。行き先は信濃の大河原か、越後加茂の粟ヶ岳山麓か、亡くなった年も場所も定かでない。 🔙戻る
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粟ヶ岳 第一水源地 下田五百川口登山口 粟ヶ岳ヒュッテ