聚感園 Shukanen 長岡市
ここは、寺泊のあかね通り商店街に面する史跡公園で、北越地方の豪族五十嵐氏の邸宅跡です。五十嵐氏は、大同元年(806)先祖忠利が姓を腸り常陸守に任ぜられ、三代左衛門尉利忠の時、越後守として当国へ赴任せられたといわれます。寺泊へ移住した年代は不詳ですが、文冶三年(1178)の頃は寺泊近在67ヶ町村を知行し、元和元年(1615)から35年間、近郷126ヶ町村を支配し,佐渡への玄関口としての宿場町の総元締めという界隈きっての権力者でした。 しかし江戸末期に至って家運が傾き、戊辰戦争による家財没収や明治初期の火災のために没落し、広大な屋敷も一部人手に渡る窮情に立ち至ったのです。その後心ある人々によって、この地の保存が叫ばれ、土地も買い戻されて、史跡公園として現在町が管理に当たっています。 ここには、承久三年(1221)佐渡へ遷御された順徳(じゅんとく)上皇が、風待ちのためしばらくご滞留になられた際の行在所(あんざいしょ)跡があります。 また、文冶三年(1178)源義経主従が都落ちして寺泊に漂着し、ここ五十嵐邸にしばらく逗留したと伝えられ、今も浴室の跡と、弁慶が掘ったと言われる手堀の井戸があります。 。 また興国二年(1341)後醍醐(ごだいご)天皇の第五皇子宗良(むねなが)親王が寺泊へ来て、新田義宗や土地の豪族五十嵐氏らと、南朝の起死回生策を謀議したと史実は伝えています。親王の詠歌を集めた「季花集」に「興国二年春、越後国寺泊に住みはべりしに帰雁を聞きて=ふるさとと聞きし越後の空をだになほ浦遠く帰る雁が音」と、他に千鳥を詠んだ一首があります。 また永仁六年(1298)歌人藤原為兼が佐渡配流の際37日間滞在し、遊女初君と歌を語り、今も池に名残りを留めるこの庭園を築いたといわれています。聚感園の名称は、ここを訪れる人々が往時を偲びながら抱くであろうもろもろの感慨を聚(あつ)める庭園という意で中院通知卿が、命名したものです。 慶長3年(1598)、越前から越後へ、堀家の与力大名である溝口秀勝が新発田への移動の途中、野武士に襲われた、それを救ったのが菊屋の主の五十嵐新五郎であったという。
≪現地案内看板≫
聚感園 長岡市指定文化財 史跡公園 ○順徳上皇行宮御遺跡 承久三年(一、二二一)順徳上皇が佐渡へ御配流の折、ここ五十嵐邸に設けられた行宮で数カ月をお過ごしになられました。 行宮御遺跡碑、御製碑があり、山頂の越浦神社は上皇も御霊をお祀りしてあります。 ○藤原為兼卿の築庭 永仁六年(一、二九八)権中納言藤原(京極)為兼卿は鎌倉幕府の執権北条貞時の怒りにふれ、佐渡へ流される途次、風待ちのため五十嵐家に滞在し、卿自ら指図して庭池を築かれたものです。 (寺泊の遊女初君とのめぐりあい、玉葉集にその歌が撰録されました。) ○宗良親王御遺跡 南北朝時代の興国二年(一、三四一)ここに滞在されて南朝復興のためにご活躍されました。 (ここでお詠みになった秀歌は李花集に載せられております。) ○義経・弁慶の遺跡 文治三年(一、一八七)頼朝に追われた義経・弁慶主従は奥州落の途次、追手の目をのがれて五十嵐家にかくまわれました。その時の浴室の跡と弁慶手掘の井戸があります。 「史跡の径」のご案内 当園の中腹を縫って眺めのよい遊歩道があります。良寛さまの住んだ密蔵院(照明寺)・良寛の妹、外山むら女の墓(法福寺)・船絵馬(国指定文化財)のある白山媛神社をはじめ由緒の深い寺社が多くあります。 ゆっくり散策をおたのしみください。 長岡市 地図 ストリートビュー |
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