清水街道 南魚沼市
南魚沼市清水集落が面した街道の歴史は古く、足利時代には大体の街道筋が成立していたようである。 六日宿から登川の谷を遡り、清水関所宿から清水峠22kmの急坂を越えて上州の土合・後閑・沼田を経て渋川で三国街道に接続した近距離道である。 上杉謙信の時代には軍事道路として松之山街道と連絡して関東に出る最短道で、関東出陣に際しては、この「清水通り」が多用されていた。しかし、永禄3年(1560)に小田原城北条氏康に敗れて以来、「清水通往来停止」となった。 江戸時代には、関東と越後を結ぶ街道として、三国街道に参勤交代道として宿駅制が定められたことから、清水街道は全く衰微してしまった。 また江戸から越後に向う際、豪雪や急坂の多い越後山脈越えを避けて、遠回りながら、街道が整備された信州を経由し越後に至るルートが一般的だった。 その後、清水通りは明治18年(1885)の国道昇格で三度脚光を浴びる。 明治政府は、日本海側で重要港のある新潟と東京間の直通の道路整備を課題とした。 そこで外国人技師に新道開削計画の作業を依頼、三国越え、清水越えの両ルートについて現地踏査させた。 その結果、それまで主に利用されていた三国街道よりも、急坂、急カーブの少ない清水街道が適当と決定し、工費35万円を投じて整備が行われた。 8月に、国道8号として馬車の通れる幅3間(5.4m)の峠道が開通し、9月には開通式がとりおこなわれた。 しかし同年の10月に長雨のため各所で土砂崩れが発生し、修復する間もなく降雪期を迎えた。雪解け後も、馬車の通れる状態ではなくなっていたため、長期にわたって通行止にせざるを得ず、暫くは修復が試みられたものの、ついには放棄された。 しかも、信越・上越両線の開通で、要路としての命脈が尽きることになる。再び登山者しか通らない間道に変わってしまった。 《現況》 峠付近の修復・改良は全く行われないまま現在に至る。 現在は、トレッキングやネイチャリングの森の中の歴史街道として、この街道が見直をされようとしています。(案内図) 清水峠
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清水部落 追分 十五里尾根(謙信尾根)ルート・井坪坂ルート分岐点 白崩避難小屋 清水峠