隣国という鏡

平成15年02月18日

 北朝鮮に関する報道が頻繁です。将軍様万歳!と口々にたたえる人々は、みんな同じ表情をしています。歪曲されたニュースを高らかに読み上げるアナウンサーも同じ表情をしています。兵士は足を棒のように振り上げて、一糸乱れぬ行進を展開し、テレビドラマでは国籍不明の男たちが、アメリカ兵という設定で、幼児を生き埋めにして反米感情を煽ります。国家は、たった一人の男の権力の前に、かくも簡単に一色に塗りつぶされるものなのでしょうか。満足に食わしてもくれない政府のために、国民は命を賭して忠誠を尽くすものなのでしょうか。

 ところが、「わしらもああじゃった…」という老人の嘆息で突然視界が開けました。天皇陛下万歳!と叫ぶこの国の国民も、わずか半世紀余り前まではみんな同じ表情をしていたのです。大本営発表に象徴されるように、真実は国民に知らされず、情報は国家の管理化に置かれていました。今はしたり顔で北朝鮮の状況を批判する新聞各社もこぞって政府支持の記事を掲載し、作曲家も作詞家も国民を鼓舞する歌を世に送り続けました。鬼畜米英をスローガンに、国家は、天皇というたった一人の人間の、この場合権力というよりもたぶんに権威を中心に、反米一色に塗りつぶされました。戦時下とはいえ、国民に雑草を食わせるような政府のために、人々は命を賭する覚悟で連帯したのです。

 北朝鮮に限らず、独裁体制の国家というものは、人民のタガが緩んで批判勢力の台頭を招くことを恐れ、日常的に戦時下にいるのです。ましてや、食えなければ結束します。そこへ他国からの圧力が加われば、窮鼠は死を賭して猫に立ち向かいます。一億玉砕などと竹槍を握った記憶は、ほんの私の母親の世代の脳裏にあるのです。今、私たちが奇異な目で北朝鮮を見るように、アメリカは戦時下の日本を眺めていたことでしょう。原爆が投下され、敗戦によって導入されたお仕着せの民主主義と経済的繁栄の下で、私たちは北朝鮮を批判する文明人を気取るようになりましたが、黙々とサービス残業を行うメンタリティの底に、隣国と同質の非近代性の匂いをかいでしまいます。自分の顔は見えません。常に隣国の鏡に写る自国の姿に目を凝らす必要があるのです。