方言の効用

平成15年02月25日

 小説を書いていると、日常では見過ごしてしまうような瑣末なことで困ってしまうことがあります。たとえば夫婦に会話をさせる時、

「今朝の新聞はどこだっけ?」

「台所じゃないかなあ」

 これではどちらが夫だか妻だか解りません。

「おい、今朝の新聞どこだっけ?」

「台所じゃない?」

 これなら解ります。

 男女平等がやかましい昨今ですが、文字による会話だけで男女の別を表現しようとすると、微妙に男言葉、女言葉を使い分けなくてはならないのです。

 男女の別だけではありません。

「誰かわしのメガネ知らないか?」

「確か居間のテーブルの上でしたよ」

 わざわざ『わし』という二文字を使用することで、かろうじて舅と嫁のやり取りらしいことが解るのです。

 登場人物の素性や関係を長々と説明する紙数のない短い小説では、随所にこの種の工夫をちりばめて会話を構成します。とりわけ会話の中で味わい深い感情の交流を表現しようと思うと苦労します。

「うちんやつも、親爺のこつ心配ばしとったい。一緒に住まんとね」

「なあん心配なか。おいは一人で大丈夫じゃ」

 という会話に醸し出される雰囲気は、

「妻もお父さんのこと心配してる。一緒に住もうよ」

「いや心配いらない。私は一人で大丈夫だよ」

 では表せません。

「おふぐろの肉ジャカは、いつ食べてもうめえなあ。子供の頃のまんまだものなや」

「いっぱい食ってけ」

 という親子の情愛は、

「母さんの肉ジャカはいつ食べても美味しいなあ。子供の頃とちっとも変わらない」

「たくさん食べてお行き」

 では大切な何かが伝わりません。

 どうやら方言には伝達以外の効用があって、

「わだすの小説は、そっだら観点で読んでもらえば面白えかも知んねえ」

 とも思うのです。