経済という迷路

平成15年03月01日

 自分たちの食う米と野菜を作った上に、わずかに他人のための草鞋を編んでいるうちは、国家は個人の集合に過ぎませんでした。やがて草鞋が家族を食わせて有り余るほどの収益を上げるようになると、人は米や野菜を作っていた土地に工場を建て、他人を雇い入れて大量に草鞋を作るようになりました。雇われた人々も、支給される賃金が、自ら食料を作るより豊かな生活を保障することを認識すると、田畑を放置して喜んで工場に通い、黙々と野良仕事に精を出す人々の貧しさを蔑むようになりました。豊かさとは、このようにして人々が生産した多様な物やサービスで、身の回りが溢れることを言うのです。もちろんどこかで人々の口を満たすだけの食料の生産が行われていての話しです。

 現代では貨幣経済という国家の信用システムの上で、人々は一粒の米も作らずに電気釜で炊いた暖かいご飯を食べ、肉を焼き、テレビを楽しみ、車で移動し、ブランドもののバッグを下げて、パソコンを操るようになりました。不用意にも食料の生産を外国に任せ、誰もが自分一人では作ることのできない高度な製品に囲まれて豊かさを満喫しています。こうなると、素朴な個人の正義と巨大な社会の正義とが乖離し始めます。思いきって公共交通機関を増やして自家用車を減らせば環境にも歩行者にもやさしいとは判っているのですが、それでは自動車を作って生活している人々の暮らしが成り立ちません。過剰包装を禁止してゴミの減量を図ろうとすれば、包装紙器類の製造業者が破綻します。渋滞の原因となっている道路工事の工期を短縮すれば、日給の途絶えた労働者の生活は干上がってしまうのです。しかも経済は国家レベルをはるかに越えて、今や国際規模で展開しています。石油の流通一つ滞っても、広範な国民層の生活が崩壊するような危ういシステムの上で、人々は昨日と同じ明日が来るものと信じて生産活動に従事しています。だからこそ、国民生活の安寧に責任を負う国家は、必要とあらば戦争も厭いません。そして、戦争ほど個人の正義と社会の正義とが乖離する局面はないのです。経済という迷路の中で正義の灯をともす灯台が見えなくなっているところに、現代人の青ざめた苦悩があるような気がしきりとするのです。