差別の原点

平成15年03月05日

 友人と二人、瀬戸内の小さな島で一泊して来ました。冬の島を訪れる人などなく、漁師の営む民宿に客は私たちだけでした。予約なしで突然飛び込んだ宿泊客に、あるじ夫婦は慌てふためいて桟橋を下りて行きました。桟橋の板を外すと、下は網を張り巡らしたイケスになっていて、夫婦は私たちの夕餉の支度にとりかかっているのでした。面白半分について行った私の目の前で、見事なタイやメバルがすくい上げられ、撲殺されました。先端に鳶口のような鋭い鉄鈎がついた棒を、正確に魚のコメカミの辺りに振り下ろす二人の漁師に、

「痛くないでしょうかねえ・・・」

 と私が聞くと、

「あんたが食べるんやがね。食べる人がおらなんだら、わしら殺さんでもええんじゃけえ」

 桟橋を汚す魚の血をざぶりと洗い流しながら、漁師は振り向いて白い歯で笑いました。

 新鮮な刺身は美味でした。自分の切り身を骨の上に乗せたオコゼは、時折大きな口を開け閉めして食べる者を睨み付けていましたし、タコの足は懸命に皿に吸い付いて最後の生を燃焼させていました。魚に苦しみがあるとすれば、断末魔の苦痛を眺めながら私たちは盃を傾けていましたが、

「うまいけど、殺す側には回りたくないなあ」

 と言ったとたんに私の胸が疼きました。

 ここに差別の原点があるのです。

 神代の物語が血に彩られ、天照大神が女性神であることを思うと滑稽ですが、殺傷を嫌う精神は血を穢れと位置付けて、神事に成人女性を近づけません。大相撲は神の宿る土俵に女性知事を上らせません。殺傷は特定のなりわいの人々に任せ、私たちは見ないふりをして魚の刺身をつつき、牛の肉を焼くのです。殺戮の周辺を見ないふりをする姿勢は、米軍基地に苦しむ沖縄の現状に目をつぶり、自衛隊を軍隊と認めない精神につながっているのではないかと考えると、たかがタイでは済まされないような気がして、酒の味がわずかに苦みを増したのでした。