わきまえる品性

平成15年03月10日

 フーテンの寅ちゃんみたいなお父さんがいたとしましょう。

「一度でいいからボクも新幹線に乗って海の見える温泉で舟盛りのお刺身を腹いっぱい食べてみたいなあ」

 友達の自慢話を聞いて羨ましがる小学生の息子のために、寅ちゃん夫婦は奮発しました。

「どうせならあんた、あの子をグリーン車に乗せてやろうよ。もちろん私だって乗ったことないけどさあ、贅沢するときは中途半端じゃ意味ないからね?」

「そ、そうだよな、そうだとも。熱海なんて遠いところへ行くんだ。そのクリーン車ってのに乗ろう乗ろう。やっぱり電車ってのは少々値段が高くったって、きれいでなきゃな」

「クリーンじゃなくてグリーンだよ、バカだね」

「電車がみどり色なのか?」

 てな調子で意気揚揚とグリーン車に乗り込んだ寅ちゃん親子は大はしゃぎです。

「お父ちゃん、こんなところにスイッチがあるよ。何だろう」

「バカ、めったなもの押すんじゃないぞ。何の用事ですかなんてお前、車掌さんが来たらどうすんだ」

「ねえ、他の人みたいに椅子を後ろに倒すにはどうすんの?ねえ、お父ちゃん」

「ん?ちょっと待て、ええっと、車だったら座席のこの横んところにレバーがあるんだけどなあ…。おい、お前、解るか?」

「そんなことより二人とも、ほら、あれ、富士山じゃない?」

「うわあ!本当だ。富士山だ!富士山だ!」

 実は私は、こんな親子が大好きなのです。

 しかし一方で、昔読んだ本の、次のような意味の一節が頭に浮かびます。

 イギリスではグリーン車は特別な料金を支払ってでも自分の社会的地位にふさわしい環境に身を置きたいという乗客のために用意されています。グリーン車を利用する人は心得ていて、お互いに良質な時間の邪魔をしないように静かにマナーを守ります。自分は紳士、淑女であるという自負を持たない人間は、初めからグリーン車には乗りません。それが成熟した社会の暗黙のルールだというのです。

 どうですか?今でもそれが事実だとしたら、カネさえ払えばズボンを腰までずらした高校生でもグリーン車に乗って傍若無人にはしゃぐことが許されるわが国との違いはどうでしょう。

 「わきまえる」という言葉があります。身分とか分際とかいう暗がりに隣接して、一見「自由」とは対極にある言葉のように思いますが、本当に自由を享受するためには、社会の構成員がお互いの自由を尊重してわきまえる「品性」が必要なのかも知れません。

 グリーン車では、雄大な富士の姿を見て大喜びの寅ちゃん親子に、周囲の乗客たちが迷惑そうに眉をひそめています。長時間同じ車両で過ごしたいとは思いません。思いませんが、心のどこかで寅ちゃん親子の風景を、ふるさとの陽だまりのように懐かしく思うのは、本当は私が紳士などでは絶対になく、寅ちゃんの側の人間だからかも知れません。