事実と真実の違い

平成15年02月29日

 真実は一つだと言いますが、澄み渡った青空を眺めながら、

「すがすがしい天気だなあ!」

 と両手を広げる人にとって、真実は青空の存在そのものでしょうか、それともすがすがしさを伴った青空の印象でしょうか。

 万人にとって真実は一つであると仮定すれば、

「むなしい青空だ…」

 と溜め息をつく人がいる以上、真実は青空の存在そのものであり、それを眺める人の気分は、たまたまその時その人がそのように感じたという事実に過ぎないようです。

 この論理で考える限り、真実とは蒸留水のように無味無臭で、我々の人生に何の彩りも付け加えません。ところが、本来無味無臭の、例えばルソンから渡って来た陶器に対して、「これはなかなかの道具である」と利休が目利きをしたとたんに、単なる土の器が千金の価値を持ち、後世の我々は博物館のガラス越しに、侘び、さび、という真実に触れた気になるのです。その時我々は、展示された茶碗の属性として中世の「美」を受け止めているような錯覚に陥っていますが、実は、茶碗に与えられた利休の主観を受け取っているのです。

 人間が生きるということは、無味無臭の真実に主観的な価値を与える営みとしてとらえることができそうです。海に沈んでゆく巨大な夕陽には、美しさも哀しさもありません。見る人がそれに美しいという価値を与えて感動したり、哀しいという価値を与えて涙したりしているのです。このように眺め渡すと、人は自分をとりまく事象に主観的な価値を与え、与えた価値を対象の属性と受け止めて一喜一憂しているのではないでしょうか。

「今度来た課長は嫌なタイプでねえ」

「結局あなたは冷たい人よ」

「何しろ今の世の中、間違ってるからな・・・」

 しかし、平和を希求する強烈な意志を、人間の楯となって表現するためにイラクに赴く人々を見るに及んで、むしろ真実は主観の側にあるのではないかと思うようになりました。人を命がけの行動に駆り立てるほどの強い思いが真実でないはずがありません。とすれば、真実は人間の数だけあると考えた方がよさそうです。そして本当の平和とは、自分以外の人々の真実を尊重するところにこそ存在するのです。