エネルギーの方向

平成15年03月08日

 小説を書きたい、エッセーを書きたい、しかし、適当なテーマが見つからない…。こんな時間が私にとって最も苦痛な時間です。実はものを書くという作業の中心は、書くという行為ではなく、一文字も書けないで苦しむことなのです。書けない時こそ、私の内部で新しい物語が生まれていることを知っているから、私はこうして狂いもせずに生きています。もしも私が書くことをなりわいとしていて、しかも書くことだけが私の存在意義であるかのような偏狭な自負を抱いていたとしたら、書けない不安は容易に私の精神と生活を崩壊させてしまうでしょう。それにしても、なぜこれほどまでに書きたい衝動にかられるのだろう…と思案したとたんに、生命の内部に存在するエネルギーの姿を見たような気がしました。

 小説を書きたい人、絵画を描きたい人、写真を撮りたい人、ゴルフをしたい人、野球を見たい人、魚を釣りたい人、うまいものを食べたい人、異性と親密になりたい人、権力の欲しい人、カネの欲しい人、人の批判をしたい人、人を笑わせたい人、仲間の中心にいたい人…。人間は、わずかな土さえあればそこに根を張り花を咲かせるタンポポのように、自分を実現したくてたまらないもののようです。つまり、人間存在の内部には、激しく方向を求める気圧のようなエネルギーがあるのです。その方向が見つからないまま、内圧が限界を越えた心のエネルギーが外へ向かえば、人は自分でも驚くほど無軌道な行動をとるでしょう。反対に内に向かえば、人は自ら命を断つこともあるのではないでしょうか。穏やかに社会生活を営むためには、心のエネルギーを統御しなければなりません。もともとエネルギーの小さな人は幸いですが、巨大なエネルギーを持って生まれて来た人の場合は相当の努力が必要です。きちんと方向を定めて消費するか、時折ガス抜きをして圧力を減らす術を心得ていなければ、鬱々と喜ばない日常を覚悟しなければなりません。それにしても、ものを書くなどという方向を選んでしまった私は、何と不健康な世界に身を置いたのでしょう。布団に入ってからも小説やエッセーのテーマを探し求める哀しい癖は、慢性的に熟睡を妨げて私の健康を蝕むのです。