責任取らない症候群

平成15年01月07日

 ある小学校から依頼を受けた講演予定日の前日にわが国に上陸した台風は、夜半からこの地方を直撃し、明け方になってぴたり・・・と止みました。すっかり晴れ上がった青空の下を、一時間ほど車を走らせて会場の小学校に到着した私は、校門で奇妙な光景を目撃しました。

「登校して来た生徒をどうしてわざわざ追い帰すのですか?」

 思わず質問すると、

「大雨警報がまだ解除にならないのですよ。でも講演は予定通り行いますからご心配はいりません」

「こんな青空なのに生徒を帰すのですか?」

「警報が出ている間は登下校の道路が安全とは言えませんからね。休校にしているのですよ」

「道路…がですか?」

 先生はご自身の矛盾に気がつかれたようです。

「教育委員会の決まりなんです・・・」

 自ら考える子供の育成を教育の目標に掲げながら、肝心の現実処理場面において教員集団が考えることをやめ、無自覚に頭脳を組織に委ねてしまうことの影響は決して小さくはないように思います。その時の教員個人を批判しているのではありません。私を含めてこの国の民族は、同じ立場に立てば同じことをしてしまうに違いない「決まりごと」に対する従順さを、遺伝子の中にしっかりと刻み込んでいるような気がするのです。決まりごとを尊重した結果であれば従順は美徳なのでしょうが、それが決まってゆく過程に信頼を置いていなければ、時に無責任という、良質な社会を形成するには大変不都合な態度ともつながって行きます。

 私の考えではない、皆が決めたことだ。

 私に責任はない、決まりに従っただけだ。

 今年の夏は海にする?山にする?と尋ねられて、どっちでもいいと答えてしまう自分自身の中にも同じDNAの存在を感じながら、帰路に選んだ近道が工事中でした。人目はありません。看板を無視しトラ柵をすり抜けて道路に侵入すると、工事は行われておらず、最後まで無事通り抜けられました・・・がそのとたん、私は鮮やかに遺伝子のもう一つの側面を認識しました。無自覚に決まりごとに従う従順さは、簡単にそれを破る安易さと表裏をなしているのです。