尊敬される人格

平成15年04月15日

 尊敬される人間には色々なタイプがあります。

 たぐいまれなる筋力を持ち、例えば道端で脱輪して困っている車を見かければ、シャツが汚れるのも構わずに助けようとする人。手先が器用で、彼のところへ持ち込めば、大抵の家電製品の故障なら簡単に修理してしまう人。思慮深く物知りで、周囲が混乱した時には必ず的確な判断を下す人。カネ持ちの上に慈悲深く、困った人を見かけるとそっと援助して見返りを求めない人。優れた美的感覚で独特の絵を描き、見る者に感動を与える人。とびきり美味な料理を作り、人々の味覚を楽しませる人。演説がうまく、世の正義や愛を説いて、聴く者に大切な価値の存在を指し示す人。例を挙げればきりがありませんが、要するに、ひたすら人の役に立とうとする一面さえ貫かれていれば、少々の人格的欠陥は愛すべき個性として許されるような気がします。

 ところが、こんな人がいたらどうでしょう。

 彼は虎の威を借るキツネのような人物で、いつも強い者の陰に隠れて身の安全を図っています。もめごとに遭遇するや、「みんなで話し合って仲良くしよう」と繰り返すばかりで、自分の意見を持ちません。いかなる問題の解決も暴力には訴えないと言明していながら、武装集団に部屋を貸し、自らも半ば公然と闘いの訓練をしています。そのくせ、家族が近所のナラズモノに連れ去られたことが解っていても、強い抗議ができません。かつてひとさまに迷惑をかけて断罪された先祖の存在が、半世紀以上経っても心の傷として後ろめたく、当時を知る人からそのことを指摘されると、ひたすら身を縮めて謝罪に努めます。一方、まるでそんな罪障感から目を逸らすみたいにカネ儲けに走り、今ではブランドものを身につけたり、ばかデカイ車に乗ったり、食べ物をオモチャにするだけではあきたらず、人目を引くためなら公衆の面前で半裸になるのも厭いません。これが自分の所属する国家に酷似していると思うと、何ともやりきれない気持ちになるのです。