天皇制と露天風呂

平成15年06月04日

 最近手に入れた『三島由紀夫・最後の対談』というCDの中で、三島由紀夫とインタビュアーが次のような会話を交わしていました。

「三島さんは日本に革命というようなものが起きると考えられますか?」

「私はね、日本に内発的革命が起きないのはなぜだろうと思うんです。明治維新だって黒船が来なきゃ起きなかったでしょうし、戦後の土地改革も戦争に負けなきゃできなかったでしょう。日本人は絶対に必要だと解っている改革も、何か外圧がなきゃできない。それは天皇制があるからだろうと考えたんです。しかし次にはこう考えたんです。内発的革命が起きない国だから天皇制が維持されたんだろうと。逆の発想ですね。それからまた考えた。やはり天皇制があるから内発的革命が起きないのだろう。これはもうニワトリが先かタマゴが先かでしてね。私はこの問題はやはりここに帰着すると思います」

 そう言えば小泉内閣の構造改革も遅々として進みません。それが天皇制と関係があると三島は言っているのです。確かに、どんなに時の政権担当者が変わろうと、その上に天皇を戴くという構造が不変なものとして存在する以上、国家の体制を根こそぎ変えようとするエネルギーは生まれません。ましてや天皇が、本来なら思想や行為に付随して発生するはずの「権威」を、神話に依拠する血統的な権威として具現し、およそ自立した成人の基本的な条件であるべき「責任」というくびきから超絶した立場で尊ばれているとなれば、その構造は民族の精神的な本質に影響を与えないはずはありません。しかし、だからこそ三島は天皇制を廃絶する方向には向かわず、むしろ絶対的権威としてそれを復活させることで国民に精神の緊張を取り戻そうと考えたのです。

 天皇なんて関係ないとは言えません。天皇のルーツは神話であり、神話の神々を祀るのが神社ですから、初詣でに出かけて神社に手を合わすだけで私たちは天皇と関わりを持つことになります。家に神棚を置けば、関わりはさらに日常的になるでしょう。しかも神社信仰は、宗教というにはあまりにもあいまいな形で私たちの精神に浸透しています。実はそのあいまいさが気になるのです。責任から完全にまぬがれたあいまいさ…。そのくせ、やれお祭りだ、やれ掃除だと、神社の維持管理の煩雑さと強制力は寺院の比ではありません。一体誰が祀られているのかも知らぬまま、こうべを垂れて有難がる一方で、仏式で葬儀を行う際は、穢れを恐れて神棚に目隠しをし、あなたの宗教は?と尋ねられると、特別な信仰は持ちませんと答えて平然としている私たちのあいまいさは何なのでしょうか。そしてそれは個人の生き方にどのような形で影を落としているのでしょうか。

 下呂温泉に一泊した時のことです。

 三島の発言に端を発し、天皇制の持つ意味をもっと知りたいと思っていた私は、途中で立ち寄った書店で格好の本を見つけました。若い人向きに漫画と読み物を交互に配した形式ではありましたが、実によくまとまっています。読み始めると夢中になって、私は本を露天風呂に持ち込み、誰もいないのを幸い、ゆったりと湯につかりながら読書にふけりました。やがて五人の中年男たちが入って来て同じ岩風呂に身体を沈めました。遠慮して隅の方へ移動した私は、天皇というタイトルが大きく印刷された表紙をあからさまにするのは何だかためらわれ、文庫本を半分に折るようにしてしばらく読書を続けましたが、切りのいいところで風呂から上がりました。すると私が脱衣場に消えるか消えないうちに男たちの大声が聞こえて来たのです。

「風呂にまで来て読書だなんて可哀想なやつだなあ」

「しかし、いい年をして漫画だぞ、漫画」

「表紙を隠していたところを見ると一応は恥ずかしかったんだぜ」

「だから逃げるように出て行ったんだ」

 私に聞こえるのは承知の上での雑言です。彼らは衆を頼んでたった一人の私を肴に楽しんでいるのです。ところが、ちょうど私は白黒を明確にしない無責任であいまいな生き方の構造に関心を抱いている最中でした。この場で事態にきちんと決着をつけてみようと考えました。

「悪いけど、本人に聞こえないように話してくれますか?それに、あんたたちのやってることは風呂で漫画を読む以上に恥ずかしい行為だと思いますよ」

 まさか私が反撃するとは想像もしていなかったのでしょう。五人の裸男たちは、もう一度湯殿に入って来た私を驚いたように見て慌てて口をつぐみました。そして、私がにらみつけた目の前の男は、謝罪する代わりに、別の一人に向かってこう言ったのです。

「おい、聞こえないように話してくれってよ」

 私はその時、暗闇から光が射し込んだような鮮やかさで無責任なあいまいさの正体を発見しました。男は私の言葉を伝える側に立つことで、咄嗟に当事者から離れ、責任のない安全な立場に身を置いたのです。伝えられた男の方は、突然事態の矢面に立たされて理性的な行動がとれず、ばつが悪そうに笑いました。他人事のように伝える行動も、こんな時に笑う行動も、考えてみれば不可解な態度です。私はさっさと浴衣を着てその場から去りましたが、示唆に富んだ出来事でした。そして、それまで気になっていた数々の疑問が、しつけ糸を解くような明快さで理解できたのです。

「お会計は千五百円になります」

 と言えば、自分の責任で千五百円を請求するのではなく、まるで金額が自然現象のように店員と客との間に立ち現れます。

「わたし的には結構好きかも知れない」

 と言えば、私は好きですと言うよりも輪郭は模糊として妥協の余地を残します。

「ビールを二、三本頼むよ。つまみは適当にみつくろってね」

 客の好みも判らない調理人につまみをみつくろわせるのも無責任ですが、ビールをわずか二本か三本かすら明確にできない精神のありようは異常です。

「携帯電話のご使用はご遠慮ください」

 という表現は、電話の使用を禁止していながら、相手の自主性に期待しているような印象を聞く者に与えます。

「えー本日は列車遅れまして誠にご迷惑さまでした」

 に至っては、主体も客体も霧の中で、責任の所在どころか日本語として成立しているかどうかさえ疑問です。

 そう言えば数々の政治スキャンダルで、きっぱりと責任を取った例があっただろうか・・・などと考えながら部屋に戻ると、カミさんがポットから水を注いでうまそうに飲んでいます。

「それって冷たい?」

 と尋ねた私は、尋ねたとたんに気がつきました。水が冷たいかどうかを聞いているのではありません。「冷たいわよ。あなたも飲む?」と注いでくれるのを期待して、あいまいに湯上りの水を要求しているのです。しかし、

「よく冷えてるわよ」

 で途切れてしまった彼女の返事にほんの少し落胆し、彼女が天皇制の影響から免れていることを改めて思い知ったのでした。

 それにしてもあの時、天皇と書かれた表紙の本をあからさまに読むことに、恐怖に似たためらいが生じたのはなぜでしょう。どうやらまだ当分は天皇制について未解決な疑問が私の胸でわだかまり続けるのを覚悟しなければならないようです。