歩道橋の思想

平成15年01月30日

 私の通勤コースに立派な歩道橋があります。緑色に塗った鉄の階段が高々と道路をまたぎ、のぼると近くの家々の屋根がはるばると見下ろせます。運動不足の私は、せめてこれくらいはと、行きも帰りも歩道橋の上り下りを自分に課しているのですが、そびえるような階段を上る時には、よし、行くぞ!とばかり、ちょっとした勇気を奮い起こさないと気持がくじけそうになります。歩道橋の険しさは半端ではないのです。先を急ぐサラリーマンや自転車の主婦たちは、まるで北朝鮮から亡命でもするかのように、交通量の多い大通りをそわそわと横切ります。いえ、何度かは、風のように横切る幼い子供の姿を見たことがありますし、シルバーカートを押した高齢者が黙々と足元に視線を落として横切るのを見たこともあります。考えて見ると歩道橋は、急ぐ人にとってはもちろん、幼い子供、体の不自由な人、喘息の人、車椅子の人、杖の必要な人、高齢者、妊婦、重い荷物を持った人などなど、およそ弱者の側に属する人たちに対して非情なのです。その上、歩道橋の近くには横断歩道を設けてはならない決まりがあるようで、交通量の多い道路を、歩行者は険しい鉄の階段を上るしか方法がありません。

 歩道橋は雪が積もると最悪です。雪がなくても、凍った鉄板は滑ります。雨の日に傘を差して濡れた手すりにすがるのは惨めです。歩行者が苦労して渡る歩道橋の下を、たくさんの自動車が快適に走り抜けます。これは弱者に対するこの国の思想を象徴しているのではないかと思い至った時、教習所で教わった交通ルールを思い出しました。横断歩道を渡ろうとする歩行者を見たら停止する。それが運転する者のマナーです。みんながそれを守れば、非情な歩道橋は必要ありません。しかし、歩道橋を批判する私自身が、車に乗ると、横断歩道で待つ歩行者を何度平然と無視したことでしょう。その総和がこの国の成熟度です。いつの世もどこの国も、国民に見合った統治が行われることを思えば、歩道橋は私たち一人一人の成熟度を象徴して高々とそびえ立っているのです。ひょっとすると解決は、車道を地下にもぐらせるといった思いがけない方法で図られるかも知れません。