ラジオ

平成15年06月29日

 我が家には、私が生まれた時には既にラジオがありました。形も大きさもちょうど一斤の食パンのような木製の箱が、少し高い場所に神棚のような大仰さで安置してありました。箱の側面に目盛りのついた四角い窓があって、選局用のつまみを回すと、目盛りの上を細い針がぎこちなく移動しては、チゥィー、チュォーという奇妙な高音をたてました。電波という見えないものをつかまえて音楽や肉声に変えるラジオという仕組みは大変神秘的で、あの音は今でも私の頭の中で「宇宙」とか「未来」というイメージにつながっています。

「終戦の日は、ここから玉音放送が流れてな、町内の者はみんな集まって耳を傾けたんじゃ」

 壊れたラジオを処分する時につぶやいた祖父の言葉は、戦争を知らない私の脳裏にも、やりきれない戦いの終結を複雑な思いで聴くたくさんのシルエットを浮かび上がらせました。

 小学生になると、ゲルマニウムラジオというものが流行りました。トランジスタはまだ普及しておらず、ラジオといえば真空管の時代でした。スウィッチを入れると箱の奥でたくさんの真空管がゆっくり温まります。その様子を、雪景色の中に合掌造りの灯がともるような懐かしさで私は今も思い出すことができます。そんな時代に、ゲルマニウムという鉱石をつなげば簡単にラジオが聞けると言うのです。子供たちは争ってラジオの組み立てに取り組みました。イヤホンで聴くゲルマニウムラジオは電波を拾う能力が低く、子供たちはラジオを手に手に自転車に乗って、町外れに立つ電波塔の下まで出かけて行きました。かすかに聞こえて来る都会の言葉は、家族で聴く箱型ラジオとは違って、自分だけの音でした。子供たちはみんな大変な文明を手に入れたような興奮を覚えて、一様に瞳を輝かせたものですが、まさかラジオを聞く度に町外れまで自転車を漕ぐわけにもいきません。そうこうしているうちにトランジスタラジオが出現し、子供たちのゲルマニウム熱はすっかり終息したのですが、ラジオは、電波というものの不思議に触れたはじめての体験として、その延長線上にあるテレビよりも、もっと強烈な印象で心に焼き付いています。そのくせ、孫が生まれる年齢になった今も、電波というものの正体についてはほとんど無知の状態で、便利さだけを享受しているのです。