創造主

平成15年07月01日

 私のカバンには白いお守りが入っています。直腸の手術を受ける時、職場の一人がそっと渡してくれたその白い守り袋は、カバンが変わっても職場が変わっても、私の健康を守り続けてもう十年目を迎えています。直腸の手術の翌年には胆嚢を摘出し、現在も喘息に苦しむ私のいったいどこが健康なのだという拗ね者の声が、ふと心の闇の中から聞こえて来ることがありますが、それでもお守りは、そんなふうに考えるもんじゃないよ…と、穏やかに見守ってくれているような気がします。

 年をとったのでしょうか。私はこの頃しきりに人の想いというものについて考えるようになりました。唯物論だの唯心論だのを持ち出すつもりはありませんが、守り袋にはまぎれもなく、それを下さった人の想いが込められています。私は守り袋だから処分できないでいるのではなく、下さった人の私に対する想いを大切にしているのです。

 そういう目で眺めてみると、人の想いのこもらないものが私たちの周囲にいったいどれだけあるでしょうか。本箱も、時計も、テーブルも、醤油差しも、パソコンも、ガスレンジも、それを作ろうという誰かの想いを出発点にしてこの世に誕生しています。いえ、私という存在自体が父母の想いがなければ絶対に成立しなかったのです。

 神は自分に似せて人を造ったと言いますが、その意味は、想いを実現する…つまり創造主であるということではないかと思います。ところが、創造の欲求が生じるためには、欲求が満たされない状況が存在しなければなりません。どうやらこの辺りに実相のからくりがありそうです。椅子や机を作り出すことに始まって、愛や正義や勇気を実現することに至るまで、それが満たされない状況の中でこそ創造がなされるのだとしたら、欠乏と、多様な価値の相克が創造の条件なのです。

 あくなき創造主としての使命を背負った人間は、完璧な安寧など決して望んではいないのでしょう。そんな世界があれば創造は不要です。それどころか私には、人はことさら他人に異を立て心乱して、そこからの解脱を望み続ける存在のように映ってなりません。そして実は不遜にも、人は自分に似せて神を造りだしたのではないかと思ったりもするのです。