時空を超えた倉庫

平成15年01月11日

 ものを書く側に回ってから、私は書物というものの不思議さに改めて思いを巡らすようになりました。誰かの頭の中で行われた思考が文字を用いて表現された瞬間に、大袈裟に言えば、永遠の生命を得るのです。もちろん絵画も映画もCDも、人間の想念を表現し保存する手段に違いないのですが、その簡便さにおいて書物に勝るものはありません。美術館に行かなくても、映画館に行かなくても、再生機器を用いなくても、ページさえめくれば作者の思考に直接触れることができます。わずかな重量の文庫本をポケットに忍ばせるだけで、例えば芥川龍之介も夏目漱石も紫式部も、時を越えて、それこそトイレの中にまで同行してくれるのです。私たちは便器に座りながら、何と、プラトンの講義を受けることができるのです。不思議だとは思いませんか?

 祖父の葬儀でのことです。参列者たちの間で交わされる故人についての思い出話しを、私は目の覚めるような思いで聞いていました。大雨の後の大川を、抜き手を切って泳ぎ渡る若き日の雄姿も、従業員に謀判されて多額の借金を背負った事実を、その従業員の将来のために不問にしたまま黙々と返済し続けた美談も、初めて知る祖父の素顔でした。たいていの人がそうであるように、祖父は自分の人生のなにごとも書き残さずに逝ったために、長期間生活を共にし、まぎれもなく彼の遺伝子を受け継いでこの世に在るにもかかわらず、私は祖父の思想を知りません。そのくせ、会ったことも見たこともない鈴木大拙の思想からは、その著書を通じて、ほとんど諳んじるほどの影響を受けているのです。

 この頃私は、書店や図書館に行くと、時に耳をふさぎたくなるほどの喧騒を感じることがあります。周囲に不心得者がいるわけではありません。書物がヤカマシイのです。わずかに背表紙を見せて書架に並ぶおびただしい書物の一つ一つの中で、赤穂浪士が吉良邸に向かってひた走り、量子物理学が解説され、信長が叡山を焼き尽くし、アラブ情勢が論じられています。実に書物というものは時空を越えた巨大な倉庫というべきでしょう。その一角に加わるべく、今日も私はこうして文章を紡いでいるような気がします。