アメニモマケズ

平成15年10月21日

 例によって私は物事を正確に記憶できないたちなので、さあ思い出そうとするとうろ覚えなのですが、宮沢賢治の有名な詩に、雨にも負けず風にも負けず…という作品があります。その中に、東に病気の人があれば、行って心配しなくていいと言い、南に死にそうな人があれば、行って恐がらなくていいと言う…というような部分がありました。賢冶は確か日蓮宗の信者ではなかったかと思いますが、とても自律的で行動的な詩だと思います。

 子供の頃、初めてこの詩に触れた時には、気取りのない素直な詩だなあと思ったことを覚えています。そういうものに私はなりたい…と結ぶ賢冶の詩は、芸術ではなくて決意表明だと思いました。ただ、その決意の凄さが本当に解るには、私には五十才のよわいが必要だったようです。

 私が利用する駅に一人のホームレスが住み着きました。

 寒さに向かう季節だというのに、新聞紙を敷いただけの冷たいコンクリートの上に長々と横たわり、死んだように目を閉じています。ぽっかり開けた口には満足に歯がありません。無精ひげに覆われた年齢不詳の男の顔を、私は立ち止まってしばらく眺めたことがあります。男の顔があどけない子供の顔になりました。将来、路上に横たわる運命が待っていようとは想像もしないで、子供の彼は仲間たちと無邪気に遊んでいました。人生なんて、たくさんの幸運で守られているだけで、本当の姿はこの男のように、痩せて無力なものなのではないかと思ったとたんに人ごみで迷子になったような不安に襲われました。何かをわずかに踏み外せば、路上で横たわっているのは実は私の人生かも知れないと思ったのです。

 傍らを犬を連れた女性が通り過ぎました。犬は赤い服を着せられたマルチーズでした。自分の現在を支えるたくさんの幸運の存在などには全く無頓着な顔を、女性もマルチーズもしていました。いえ、そう思って見ると、ホームレスを石のように黙殺して通り過ぎるサラリーマンも、携帯電話でメールのやり取りに余念のない学生たちも、立ち止まってホームレスを眺めている私も、ぼろきれのようになって眠りこける目の前の男も、みんな同じ顔をしているような気がしました。

 ふいにアメニモマケズ、カゼニモマケズ…というフレーズが浮かびました。東には病気の人がいくらでもいます。南には死にそうな人がたくさんいるのです。賢冶ならこの事態にどのような態度で自分を貫こうとするのでしょうか。

 私はやりきれなくなって足早に男の側を離れました。それ以来、二度と男の傍らに立ち止まることはありません。しかし、いくらかでも自分が善意に満ちた人間であるかのような発言をした時には、きまって男の顔が浮かびます。そして、心配しなくていいよ、恐がらなくていいよ…と賢冶に声をかけてもらいたいのは私自身なのだと、はっきりと自覚するのです。