邦楽考

平成15年10月22日

 私は昔から絵なら水墨画が好きです。音楽なら尺八や和太鼓が好きです。スポーツなら柔道や剣道に魅かれます。書道に至っては、うまくもないくせに筆ペンを常備して、素敵な書に出会うと書写したりしています。共通点は瞬時の緊張感だということに最近になって気がつきました。

 次から次へと絵の具を重ね、長い時間をかけて完成させる油絵と違って、水墨画は筆を下ろす回数をいかに少なくして質感を出すかが問われます。尺八も和太鼓も大げさに言えば、発した音が魂を宿します。オーケストラの楽器類が魂を宿さないとは言いませんが、どちらがより精神性を要求されるかと言えば、楽器そのものが単純である分、尺八や和太鼓の音には演奏する者の精神のありようが露呈するように思います。柔道も剣道も一瞬の技が勝負を決めますし、書道となると筆を下ろしたら一気に書き上げないと文字は死んでしまいます。表現する側は、瞬時に完結してしまう表出世界に自分の精神の質量の全てを投入することに腐心し、鑑賞する側は、作品よりも、作品の生み出される瞬間の気迫なり覚悟なり境地なりを味わおうとします。禅僧の書く一円相などはその典型で、墨蹟の形状ではなく、そこから伝わって来る、書いた人物の境地のすがすがしさを鑑賞の対象にしている訳ですから、鑑賞する側にもそれを味わうだけの精神の深まりが要求されるのです。

 私は尺八を習っていた時期がありました。習い始めると夢中になって、わずか二年間で『皆伝』まで進みました。発表会は三曲合奏といって、三味線と琴と尺八が一緒に地唄の演奏をするのですが、不思議なことにオーケストラのように指揮者がいません。琴と尺八は、三味線のテンポに合わせて演奏するのが暗黙のルールなのです。三味線のバチの動きを視野の片隅に捉えて、琴も尺八も息を殺します。バチが上がり、振り下ろされる瞬間に音を発します。地唄はたいてい一曲が三十分近くに及びますが、三つの楽器は指揮者もないまま、寄り添うように演奏することに心を砕きます。尺八も琴も三味も、どんなに上手くても自分だけが目立っては非難の的です。お互いの音を引き立たせるように配慮しながら演奏するのです。演奏が終わると、

「呼吸がぴったりと合ってたよ!」

 というのが最高の賛辞でした。

 個人が磨き抜いた魂の音を、指揮者もない状態で懸命に調和させることが邦楽のもう一つの技術なのです。ここに和楽器の特色があります。和楽器の『和』は、指揮者のない状態で自主的に調和を果たす『和』なのでしょう。それが音楽の世界に限らず、いい意味でも悪い意味でも、異を嫌う大和民族の生き方の背骨になっていることに、私は邦楽を通じて気がつきました。互いを生かすことは、個人が埋没することと同義ではないはずです。自己主張と調和を両立させること。これこそ究極の調和なのだと思うのです。