恨みのエネルギー

平成15年11月01日

 イラクでアメリカに対する執拗な抵抗が続いています。色々と政治的な理由はあるのでしょうが、自らの命を捨ててまで人々をテロに駆り立てているのは、誇りを奪われた者の恨みのエネルギーではないかと思います。

 命は地球より重いなどと言いますが、思い悩んで自殺するのも、思い余って人を殺すのも、人間の内部にあって、命以上の価値に殉じさせるなにものかの存在を示しています。誇りも、それを奪われた時に感じる恨みも、損か得かという合理的思考から考えれば随分と逸脱した行動に人間を駆り立てます。テロで平和が達成できる筈はなく、武力でテロが撲滅できるはずもないのです。考えてみればアメリカ自身があの貿易センタービルを破壊された恨みのエネルギーに突き動かされて、恨みが恨みを生む底なし沼の中に足を踏み入れてしまったのでしょう。人間というものは実に不合理な存在といわねばなりません。

 一般に恨みのエネルギーは愛のエネルギーに比べれば格段に激しくて攻撃的です。

 随分昔のことですが、職場の親睦旅行で幹事を仰せつかったことがありました。二次会が済んで一部の職員が麻雀を始めましたが、ルールを知らない私は、いつ果てるとも分からないゲームに付き合う訳にもいかず、十一時過ぎに自分の部屋に戻って眠ってしまいました。

「幹事はどこや!」

 廊下を近づく上司の声で目が覚めました。

 カラリとふすまが開きました。

「おい!幹事が先に寝てどうするんだ!ビールがないぞ」

 上司が私の頭を蹴りました。

 枕が飛びました。

 一瞬の出来事でしたが、人間の頭部にはきっとその人の誇りの全てが詰まっているのでしょうね。頭を蹴られた私は、その時自分でも驚くほどの激しさで上司を憎みました。無言でしたが、瞬時に大量の恨みのエネルギーが放出された実感がありました。

 それから間もなくして上司は心臓発作で急死しました。私は咄嗟にその時の私のエネルギーが彼を殺したのだと思いました。もちろん科学的にはそんなことはありえませんが、ありありと実感したのですから仕方がありません。それ以来私は、人間の魂に対して厳かな恐れを抱くようになりました。怨霊とか魂鎮めと言えば前近代的ですが、人間の誇りは傷つけるべきではないのです。人前で恥をかかせたり、身体的特徴を笑ったり、ましてや頭を足蹴にしたりすれば、誇りを奪われた者の恨みのエネルギーは必ずわざわいをもたらすような気がします。たとえ自分の誇りを守るためであっても、できるだけ相手の誇りを踏みにじらない方法を選択すべきです。それをわきまえるのは臆病ではなくて品性なのです。そして国家が品性を中心に据えて運営される時、その国の国民は初めて世界の尊敬を集めるのではないでしょうか。 わずかなコンクリートの割れ目や歩道橋の鉄板の隙間から、名も知らぬ雑草が小さな花をつけているのを見かけたりすると、生命のけなげさと、したたかさを感じます。花は懸命に虫を誘って受粉を果たし、次の生命を創り出します。中には、交尾を終えるとオスがメスに食べられることによって新しい生命の栄養源になる虫がいますが、ここまでくるとけなげさもしたたかさも通り越して、命をつなぐ営みの凄さすら感じてしまいます。メスの気を引くオス鳥の懸命なダンスも、メスのセイウチをめぐるオス同士の血みどろの死闘も、形こそ違え、いのちを次代に引き継ごうとするエネルギーの激しく燃焼する姿なのです。

 では人間の場合はどうでしょう。生命が次の生命をつないでゆく強固なシステムだとしたら、両性は互いを魅きつけたいという狂おしい本能を持っています。しかし本能は本来の意図を意識させません。私たちは、生命維持を意識してではなく空腹を感じて食事をとるように、異性の関心を引きたいという意図を意識しないで、目的に沿った行動をしています。男は女にとって好ましく、女は男にとって好ましい行動様式を身につけて、本能の命令に従っているのです。そう思って見ると、女性のファッションの謎が解けて来ます。大きく開けた胸元、露わな太もも、赤い唇、長いまつげ、ひょっとすると大胆に背中や腹部まで露出し、男の性衝動を誘う場所にはアクセサリーが揺れています。そんな女性を見ると男たちの本能は、女性の思惑どおり、ただちに性衝動の発動を命じます。命ぜられた男たちの脳の中では、長年培われた社会規範と、一匹のオスとしての無軌道な性衝動が涙ぐましい葛藤を展開します。そして二つの強さの相関によって彼は女性の前に素敵な男性として現れたり、けもののような性犯罪者として現れたりするのです。

『女性は常に危険にさらされています。防犯ベルを持って夜道を歩く男性がいるでしょうか?男性にはそんな女性の弱い立場を理解して、破廉恥な痴漢行為は絶対に慎んでほしいのです』

 という趣旨の記事を読みましたが、実はオスの関心を引こうとするメスの本能が、その反動のように、オスに対する期待に満ちた恐怖を発信しているのに違いありません。そもそも生命をつなぐからくりとして男と女がこしらえられた時点から、私たちは大いなる矛盾を抱えて生きてゆく運命を背負っているのかもしれません。