テクノロジーの国

平成15年11月23日

 空海展を観て来ました。

 高野山には祖母の骨が納骨してあります。生前から、死んだら高野山への分骨を希望していました。祖母の、さらにその母の骨が納骨してあって、嫁いだ娘が母親と同じ場所で永眠しようとすれば、高野山に分骨するしかなかったのですね。切ない話しです。

 夫になる人の顔も知らずに嫁に来た明治の女が、母親の骨のある高野山を慕う胸の内には、いったいどんな想いがあったのでしょう。複数の持病を得て、自らの人生の出口をほのかに想像する年齢になった今、ようやく私もそのことを考えるようになりました。とにかく、そういう意味で私にとっても高野山、つまり空海展には特別な感慨があったのです。

 平日だというのに会場は大変な混雑でした。

 空海というと巨大な思想家の匂いがしますが、要するに弘法さんですから、世の高齢者にとっては親しい存在なのですね。

 高野山から美術館へ移された一大宗教美術は、仏像も仏画も曼荼羅も、真言密教の世界を余すところなく表現して、平安の昔を平成の現代に生き生きと蘇らせています。空海の当時、難解な真言の奥義をあまねく衆生に理解させるためには、文字ではなく造形に委ねるしかなかったのでしょう。いいえ、即身成仏を体現する密教世界の消息は、文明の副作用のために精神を痩せ細らせた現代人にとってこそ、手の届かない彼岸の神秘であるに違いありません。だからこそこれだけ多くの人々が入場料を支払って平日の美術館に詰めかけているのだと思った私の印象はしかし、展示品に顔を近づけて口々につぶやく入場者の言葉を聞いて一変しました。

「この仏像の材質は金属かねえ…」

「平安の絵画がこれほど色鮮やかに保存されているのは驚きだねえ…」

「この美しい文字を見てごらん。墨の発色も見事だし、紙も全く変色していない」

 平成の人々は、展示品の数々を通じて密教世界を窺い知ろうとするのではなく、一つ一つを過去の技術として眺めては感動の声を上げているのです。この国はやはりテクノロジーの国なのですね。

 そう思って見れば弘法さんの足跡は、農業用の溜め池を作ったり、堤防を築いたり、井戸を掘ったり、病気を治したり、土木技術や医療技術の実践記録で一杯です。歴史的な真偽は別としても、当時の仏教学問の頂点の位置に立つ最澄に比べて、空海が今でも弘法さん弘法さんと親しみを込めて尊敬されるわけは、背後にテクノロジーを背負っているからかも知れません。