自由という価値

平成15年12月22日

 私たちの所属する社会が中心に据えている価値は、「自由」です。「民主主義」は、特定の権力者に各人の「自由」を踏みにじらせないための面倒な手続きです。ですから私たちは、自分の自由を大切にするように、他人の自由も尊重しなければなりません。電車で化粧をする女性を非難してはいけないのです。「見たくない自由」というものは、そのために他人の行動を規制するほどの根拠は持ちません。男子高校生がズボンを腰までずらして歩こうと、女子高校生が中国の扇のようなまつげでまたたこうと、自分のファッションを他人からとやかく言われたくないように、彼らを非難すべきではないのです。

 ひるがえって、私たちが常に晴れ晴れと自由を好むものかというと、そうとは限らないようです。例えば私に女性の下着を身に着けて喜ぶ癖があったとしたら、それは誰にも迷惑をかけない私の自由であるはずですが、家族にも知られないように細心の注意を払うでしょう。例えばあなたが好んで虫を食べる癖を持っていたとしたら、それだって誰にも迷惑をかけないあなたの自由であるはずなのに、捕まえた昆虫はこそこそと隠れて口に入れるでしょう。なぜでしょうか?自分の中に、これは他人に知られれば人格が否定されかねないと感じる感覚が存在していると考える以外に説明がつかないではありませんか。私たちの内部には、まぎれもなく他人がいるのです。「自由」といっても決して野放しではなく、言動はまず自分の中の他人の検閲を受けるのです。自分の中の他人性…。それが均質であれば、「見たくない自由」も侵されることはありません。人々はお互いに自由にふるまいながら、不愉快な思いを抱くことはないはずです。ところが私たちは、「個性」という名の下に、その均質性がどんどん崩れてゆく時代を生きています。個人であれ社会であれ、発達の法則はつまるところ分化と統合ですから、私たちの暮らしぶりは文明の進歩と共に限りなく分化してゆきます。美しさの基準も正義の体系も快楽を充足する方法も、一般論はどんどん成立しなくなってしまいます。私が美しいと思うものをあなたが美しいと感じるとは限らず、あなたが正しいと思うことを私が正しいと感じる保障はありません。たくさんの価値の混在する状況は、「不安」と言い換えても構いません。 高度な文明社会ほど人間が孤独に陥る傾向が強いのは、価値が多様化してゆくことが原因なのです。混沌を統合するさらに上位の価値を求めようとすると、もはや「自由」しかありません。私たちは「自由」という価値を、まるで宗教のように信奉することによってしか、他人を許すことができないのです。世界で最も多様性に富む移民の国アメリカが、独裁者の支配する国家を異常なほど憎む理由がここで初めて理解できます。彼らにとって自由は、社会生活を継続する上ですがるべき、たった一つの価値なのです。それを解りすぎるくらい解った上でなお、誰もが同じ価値を共有していた煩わしくも安心な時代が私は懐かしくてならないのです。