東の笑い・西の笑い

平成15年01月30日

 よく指摘されることですが、お笑い番組などを見ていると、関東と関西とでは笑いの質が違うような気がします。今ではマスコミという境界のない巨大な器の中で攪拌されて、両者はよほど接近してはいるものの、笑いをとるに際し、東は知性に訴えるのに対し、西は例えば視覚に代表されるような、もっと直接的な感覚に訴える傾向があるように思うのです。

 私も四年間の学生時代を大阪という西の文化の中心で過ごしたせいか、人をなごませたり雰囲気を盛り上げたりする時の手法が関西風のようです。

 かつて勤務していたある学校で、学生たちに寸劇の発表会を企画させることになりました。大いにハメを外しても構わないというイメージをふくらませ、学生たちを鼓舞する目的で、私はいつものように無意識に西の手法を用いたようです。

「ヒゲをはやして難しい顔をしたA先生に女装をさせても構わないし、B先生などはお面を被らせれば人格が変わりますよ。C先生などはこういう催しが大好きですから必ず参加されます。あの煮豆のような顔を大笑いさせるような寸劇を企画してください!」

 学生たちの頭の中で真面目な教員たちの滑稽な姿が視覚化されて、教室には笑いが起こり、学生たちはその気になりました。ところが、目的を達して安堵する教員室へ一人の男子学生が訪ねて来てこう言うのです。

「先生はC先生のことを笑いのネタに使いましたよね?」

「・・・」

「どういうおつもりですか?」

「どういうって、まあ、会場をなごませると言うか、雰囲気づくりと言うか、その・・・」

「つまり笑いのネタにしたのですよね?」

「まあそういうことになるのかなあ・・・」

「会場をなごませるとか雰囲気づくりとか言うのは先生の勝手な思いこみで、私は大変不愉快でした。お世話になっているC先生をあんなふうにネタにして笑うのは失礼なことだと思います。そうじゃありませんか!」

「いや、そんなつもりはなかったのですが、しかしまあ、そういうふうに受け取られたのなら申し訳ありません」

 頭を下げる私をにらみつけて、

「僕に謝ってもらっても仕方がないですよ」

 憤然と立ち去る学生の背中に、これから気をつけますと付け加えたかどうか実は覚えていません。それくらい気が動転していたのです。そして、一晩考えました。

 言い訳は可能です。

 権威ある人を視覚的に揶揄して喜ぶ傾向は、やはり関西の「気風」なのです。

 しかし、親しくない人を引き合いには出しません。茶化しても許される間柄の範囲内でそうするのです。発言が本人に伝わっても、笑って済ませてくれる自信のある関係に限定してそうするのです。普通は、その種の揶揄を聞けば、発言者と揶揄の対象となった人物が、それを許しあう関係であることを推察して笑うのです。揶揄の内容が人格を否定したり、悪意に満ちた誹謗中傷でない限り、一般に目くじらを立てません。ただ笑って済ますか不愉快に感じるかの基準が東と西とでは微妙に違うのです。抗議をした学生は極端に東の文化の人間なのでしょう。

 文化の違いのせいにして、特定の学生を不愉快にさせてしまった責任を免れるつもりはありませんが、その学生のために老婆心に類する懸念を感じます。学生から見た好悪は別にして、C先生同様、私も彼に対しては教員です。他の教員もいる教員室で、不愉快だの失礼だのと詰め寄って謝罪させたあげく、自分に謝られても仕方がないと逃げ場のない場所に追い詰めるのは、私という教員に対してこれまた失礼かつ不愉快な行為のように思います。彼でないとすれば、いったい誰に向かって謝罪すればいいのでしょうか。まさか何も知らないC先生に謝れば、謝ったとたんに揶揄は悪意に変質して返って失礼なことになりそうです。聞いていた学生全員を集めて謝罪すれば、全く気にもとめなかった大多数の学生たちの中で事態は別の意味を持つでしょう。反省を促されて悄然と首をうなだれることを期待されているのだとすれば、実は今もって私は自分の行為にそれほどの責任を感じません。やはり抗議した学生に、あなたを不愉快にさせて申し訳なかったと謝罪するのが最も妥当であるように思います。そして、彼の抗議によって私が自分の行為を是とするか非とするかは、私の側の問題のように思うのです。老婆心のような懸念というのは、抗議を受けて謝罪した後の私の心に残るやりきれなさが、今後、彼に対する警戒心という形で続いて行くように思うからです。教員室に乗り込んで率直に不快感を伝える態度には、ある種の勇気を感じますし、それが悪いことだとは決して思いませんが、これからはこの学生の前では慎重に発言しなければとは思います。不用意な日常会話からどんな抗議を受けるとも限らないと思えば、できるだけ関わらないようにしようとは思います。例えば彼が何らかの理由でかねて私に嫌悪を抱いていた結果としての抗議であれば、むしろその嫌悪の原因を知ることが私の成長につながるでしょうが、誰に対してもこの種の率直さで接する性向があるのだとしたら、抗議を受けた人間の心には私同様の警戒心が芽生えることでしょう。そしてそれは、彼の人生を狭くすることはあっても、決して開いてゆくことにはならないのではないかと危惧するのです。

 言葉とは恐ろしいものです。そういう意味では、恐らく彼とは比較にならないほど大量の言葉を紡いでなりわいとしている私の場合、意図も意識もしないで、たくさんの人を傷つけているのかも知れません。襟を正して戒めなければと思います。思いますが一方で、そうは行くものかとも思うのです。慎重すぎる相撲が面白くないように、失言のない官僚の発言が面白くないように、臆病すぎる会話は魅力がありません。失言する度に謝罪しながら、もちろん悪意のない範囲で、そして、警戒しなければならない相手のいないところで、はらはらも、ドキドキもする会話を楽しみたいと思います。

 もう気にするのはやめましょう。こうして行き場のないやりきれなさを文章にして整理することで、私の心は十分耕されました。異質なものと出会うことで文化が進化するように、個人もこのようにして何事かを人格に付け加えるものなのです。

 願わくは、この文章からも意図せぬ悪意を抽出して、理不尽な抗議をする読者のないことを祈らずにはいられません。