水戸黄門の構図

平成15年02月05日

 長寿番組といえば何といっても水戸黄門でしょう。現在のシリーズが始まったのがいつだったのか定かには思い出せませんが、私が中学生の頃には、確か月形龍之介という往年の大スターが主演で、既に黄門さまは悪を懲らしめて全国を漫遊していました。こうしてみると実に長い間、悪の根は絶えることなく、懲らしめても懲らしめても黄門さまを煩わせ続けて現在に至っていることになります。それにしても冷静になって考えて見ると、黄門さまのドラマには、昔から一貫してつらぬかれている興味深い構図が見えて来ます。まずは百姓町人が泣きます。泣かすのは家老と回船問屋です。そして懲らしめるのは必ず黄門さまなのです。どう間違っても百姓や町人たちが自ら立ち上がって問題を解決することはありません。今の世で言えば百姓町人は一般庶民であり、家老と回船問屋は官僚と企業であり、黄門さまはさしずめ警察庁ということになるでしょうか。番組がこれほど長期に放映され続けているということは、視聴者の支持があるからです。言い換えれば我々はこの種のストーリーが好きなのです。そして筋書きだけに着目すれば、大岡越前も遠山の金さんも暴れん坊将軍も、おしなべて同じ構図で作られていることに気が付きます。私たち庶民は、官僚や政治家が企業と結びついて、税金や郵便貯金を思うままにしている匂いをかぎながら、自ら立ち上がって国会を取り囲むことはありません。いつか暴かれる。悪の報いは必ず来る…と、水戸黄門の出現を待ち詫びながら、その実、暴いても懲らしめても悪の種は尽きることはないと達観してもいるのです。その無力感が水戸黄門に象徴される権力の構図を支持しているのか、反対に、水戸黄門の構図を飽くことなく見せ付けられた結果として、無力な国民性を育んでしまったのかは判りません。ただ、大きな戦争を経験し、政治が国民の監視を離れることの恐ろしさを嫌というほど思い知らされた国民が、民主主義国家を標榜していながら、江戸のメンタリティから脱却できないでいるのは不都合です。葵の御紋に平伏する姿を見て溜飲を下げる時、実は下げる側の胸の中で、自分に平伏を強いる葵の権威を期待する何事かが反応している危険性を見逃してはならないのです。